内 輪   第199回

大野万紀


 いつの間にかこの連載も199回。次回は200回ですね。いや、だからどうだということはないのですが。
 ここのところ色々と多忙でなかなか本が読めません。梅田の例会にも月1程度しか参加できず、ちょっと寂しい感じです。でも今月はSFらしいSFを続けて読むことができたので、よしとしましょう。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『最後のウィネベーゴ』 コニー・ウィリス 河出書房新社
 コニー・ウィリスのオリジナル短編集。長めの中編を含む4篇が収録されている。「女王様でも」は一番短いが、コメディではありながら、フェミニズムのもついくつかの要素を多面的に描いた、作者らしい傑作だ。男子でも安心して読めるといったら怒られるかも知れないが、ある種のバランス感覚が感じられる。長い2篇、「タイムアウト」と「スパイス・ポグロム」は、面白くないとまではいわないけれど、ひたすら饒舌でアメリカンなコメディで、ちょっと疲れる。「タイムアウト」の方はかなり独創的なタイム・トラベルSFで、お話だけでなくアイデアも確かに文系なSF。とはいえ、話の大半は井戸端会議のおしゃべりで、あんたらは大阪のおばちゃんか、といいたくなる。「スパイス・ポグロム」も(ポグロムがユダヤ人虐殺のことで、タイトルがスペース・プログラムのことだと――小説の中ではっきり書かれている――理解すると、かなり恐い話ではあるのだが)とても混雑したスペース・コロニーを舞台に、コミュニケーションに難のあるエイリアンとのドタバタ喜劇である。これも長くて、読んでいて疲れるのだが、いっそ吉本新喜劇だと思って読むと、わりとすんなり頭に入った。「最後のウィネベーゴ」はうってかわってシリアスなストーリーで、しんみりとするお話。滅びていくものには、それがどんなものでも、哀感があるものだ。それがさらにSFとして感動を呼ぶのは、滅びていくのが犬やウィネベーゴや古き良きアメリカだけではないからだ。

『時の眼』 アーサー・C・クラーク&スティーヴン・バクスター 早川書房
 クラークとバクスターの合作で〈タイム・オデッセイ〉二部作の前編だ。まだ前編ではあるけれど、これはなかなかの傑作である。いかにもSFらしいSFの味わいがある。クラークとバクスターの合作は悪くない。まあほとんどはバクスターの作品なのだろうと想像するのだが、なるほど「大きな物語」が好きな二人の書きそうな話で、フレッド・ホイルの『10月1日では遅すぎる』のようでもあり、小松左京の『果しなき流れの果に』のような雰囲気もある。21世紀のアフガニスタンで国連平和維持軍のヘリが撃墜され、落ちたところは19世紀の英国軍が駐留する同じアフガニスタン。突然地球上の各地域が猿人の時代から21世紀までの200万年に渡る様々な時代のパッチワークになってしまった。とはいえ、ほとんどは人類のいない無人の世界であり、いるのは不時着したヘリに乗っていたヒロインのピセサらと、たまたまソユーズで帰還しようとしていた宇宙飛行士たち、アフガニスタンの大英帝国の一部隊、そして遠征中のアレクサンドロス大王の軍団、13世紀のチンギス・ハンのモンゴル軍といった連中だった。本書のクライマックスはアレクサンドロス大王に率いられるマケドニア軍とチンギス・ハンのモンゴル軍の時代を超えた大戦争だが、このような「断絶」を引き起こした存在(どうやら『2001年宇宙の旅』のシリーズに出てきた「魁(さきがけ)種族」らしい)や、人類とは、戦いとは、遙か地の果てまで遠征しようとする冒険心とは、などなどの「大きな物語」が本書を読み応えのある本格SFにしている。早く続きを読みたいシリーズがまたできた。

『沈黙のフライバイ』 野尻抱介 ハヤカワ文庫
 書き下ろし1編を含む5編を含む短編集。いずれも傑作だが、とりわけ表題作の「沈黙のフライバイ」と巻末の「大風呂敷と蜘蛛の糸」はオールタイム・ベスト級の傑作である。5編はどれもハードSFというべき作品だが、現代物理の最先端をいくようなアイデアもなければ、驚くべき大発明や超技術が出てくるわけでもない。もちろんシンギュラリティもない。すごく淡々とした、日常的な人間の行為としての科学や工学、大天才ではない、大学や企業の研究所にいるような普通の、等身大の科学者やエンジニアが築き上げるものとしての、ちょっとしたアイデア、少しだけ未来、そんな技術や生き方がやがて世界を変えるものとなる、そういう雰囲気がここにはある。とはいえ、プロジェクトX型の、団結、努力、勝利という物語ではなく、もっとぼそっとした、血圧の低い、まさに「ふわふわ」とした、解説の松浦晋也氏によると「気負いのない」「力の抜けきった」小説なのである。だが、それがいいのだ。そんなふわっとしたところに、胸を打つセンス・オブ・ワンダーが立ち現れる。そう、作者の小説には、そのようなSFとしかいえない、SFでしか味わえないたぐいの魅力がある。「沈黙のフライバイ」はその昔SFオンラインの有料ダウンロード小説だった。ぼくはダウンロードして読みながら、良くできたリアルなファースト・コンタクト・テーマのハードSFだな、と思いつつ、最後の一段落でどかんときた。こんなに淡々と、ドラマらしいドラマもなく描かれながら、こんなに奥深いSF的ビジョン、視点の広がりが得られるとは。歳をとって涙もろくなっているとはいえ、本当にじーんとくる感動がある。オリジナルの時よりも、ライトノベル調が減ってさらに(おじさんやおばさんの読者にも)読みやすくなっている。この傑作がやっと本になって多くの人に読まれるのは嬉しいことだ。「大風呂敷と蜘蛛の糸」は(ちょっとタイトルが個人的には気に入らないのだけれど)、これまた小品ながら大のつく傑作である。「静謐」という言葉が似合う、とても美しい作品である。ここにはまた、ぼそっとした、いかにも理系の学生らしいリアリティのある女子学生が登場する。ライトノベルの萌え系なヒロインとは対照的ながら、彼女はとても魅力的だ。何より自分の頭で考え、自分で手を動かす。そしてこの物語は今現在の日本で活動している大勢の人たちとも直結し、そこからまさに細く繊細な蜘蛛の糸によってはるか成層圏の上、衛星軌道の下に広がる中間圏と呼ばれる上層大気の中に静かに昇っていく。広大な何もない空間に佇み、ひとり地球の広がりを見つめる静謐な物語なのである。おしゃべりもなく、ジェットの轟音もなく、ただ空と大地があるばかり。そしてここでも、ささやかな生命をめぐっての壮大な宇宙的ビジョンをかいま見ることができる。小松左京は「宇宙よ、しっかりやれ」といった。野尻抱介の登場人物たちも、声には出さないかもしれないが、心の中でそっと同じことをつぶやくに違いない。

『バビロニア・ウェーブ』 堀晃 創元SF文庫
 創元SF文庫から海外SFと同じ装丁で出始めた日本作家の文庫、その第一弾が『バビロニア・ウェーブ』の復刊、文庫化とは嬉しい。何しろずいぶん昔の話なのでさすがに古くなっているかな、と読み始めたのだが、とんでもない。確かにラストに出てくる壮大なSF的宇宙観は、今の知識ではちょっとSF的にすぎるかもしれない。だけど、解説で福江さんが書いているけど、とりあえず観測的に棄却されるものでもないのだ。で、もちろん本書の主人公は全長5380光年、直径1200万キロのレーザー光線の定在波、バビロニア・ウェーブそのものである。物言わぬ、目に見ることもできない沈黙の光束。へびつかい座ホットラインは情報を流すおしゃべりなホットラインだけれど、こっちは何のためにどうしてあるのかもわからない謎の光の束。ただエネルギー源として利用はできる。この光のエネルギーを利用する連絡船や、様々な小道具・大道具の描写もすばらしいのだが、そういう細かな技術的側面や、バビロニア・ウェーブの技術的利用といったビッグ・エンジニアリング方面には話は向かわない。プロジェクトSFではないのだ。とことん寡黙で、孤独な、次々と人の死ぬ大事故が起こるにもかかわらず、少しもドラマチックではない、恐ろしく淡々とした物語なのである。太陽系の最果てにある送電基地へやって来た孤独な操縦士マキタが出会うのは、何をやっているのかわからない謎めいた基地の駐在員たちとバビロニア・ウェーブの発見者である老教授。孤島もののミステリのように、彼らは一人一人死んでいく。だが謎は解かれず、話は妙にかみ合わず、SF的アイデアでぱっと視界が開かれるというわけでもない。読者はひたすら宇宙の静寂、孤独、とほうもない広大さをしみじみと味あわされるのである。こういうストイックな物語もいいなあと思う。こういう状態がえんえんと続き、そして終章でやっと一気に世界が広がるのだが、それでも謎は解かれていない。作者はクラーク流の宇宙知性といった存在にやや惹かれながらも、それで解決とはせず、あいまいさを残して終わる。そうだな、確かにここから続編として大宇宙SFも書けそうだ。今時のニュー・スペースオペラの舞台にもぴったりだろう。だけど、作者はきっとそんなものは書かないだろうと思う。

『忌憶』 小林泰三 角川ホラー文庫
 「奇憶」「器憶」「危憶(危は土扁に危:ユニコード579D)」と、三編の関連する中編が収録されている。「奇憶」は前に祥伝社400円文庫で出ていたものの再録だが、他の二編は書き下ろし。「奇憶」の感想は以前と同じで、ダメダメな男の悲惨な生活が延々と描かれる部分がいかにもな感じで読ませるが、それだけでも十分ホラー(日常的なホラー)なのに、ファンタジーへと転調する部分がしっくりとこない作品である。ファンタジーの質としても他の二編とは異なっていて、ちょっと違和感がある。「器憶」は「奇憶」に出てきた女性が主要な人物となり、彼女の婚約者となる男が魔法的な腹話術の練習をする話。腹話術から人格の分離、自分や意識の意味へと自然につながっていくところはいかにも小林泰三のSF的な問題意識が現れている。もっともSFというよりはあくまでホラーで、おもちゃ屋のところなど、「玩具修理者」ともつながる雰囲気がある。だけど一番興味深いのはやっぱり彼女その人だなあ。「危憶」の主人公は「奇憶」に出てくる親友(たぶん)で、ある時点から以後、数分間しか記憶が保てず、何でもメモに残しておかなければ忘れてしまう記憶障害にかかっている。そういう病気が本当にあるのか、あるとしてもここに書かれたようなものなのかは知らないが、ここではそういう症状が実際にあるとして、その場合に自分とは何なのか、意識の連続性や正当性はどう保証されるのか、ということがテーマとなっている。小説的には仕掛けがあって、ホラーというよりはミステリとなっているのだが、本質的なテーマは意識というプロセスと記憶というメモリーなりストレージなりの関係にある。その点ではりっぱなSFであって、自分というものの連続性・正当性を保証するのが記憶であるなら、この場合、自分とは人生の断片を記録したノートの方に存在することになるという、そんなお話である。やっぱり、小林泰三は日本のイーガンなのだ。


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