内 輪 第195回
大野万紀
ぶ厚い本が多くなったのも理由のひとつでしょうが、ひと月に読む本の数がずいぶん減っています。こっちの(本読みの)体力が衰えてきているということもあるでしょう。今月は実際に風邪を引いたり、目を痛めたり、そういうのもあったしね。それにしても年末の出版ラッシュで、また積ん読の本がたまっていく。何だか切なくなってきます。
それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『移動都市』 フィリップ・リーヴ 創元SF文庫
都市がスチームエンジンで移動し、互いに食い合うという遠い未来のサイエンス・ファンタジー。元々がジュヴナイルだったということで、ライトノベルというか、アニメっぽい雰囲気もある。飛行船とか、古代の文明を滅ぼした60分戦争の遺物とかね。しかし、淡々と描かれているのだけれど、この世界は過酷で残虐な運命に充ち満ちている。登場人物たちはどんどん死んで、大都市も飛行船も破壊され、残るのはこんな悲惨な世界に誰がしたというあきらめばかり。でもそんな世界でも人は生きて死に、少年は成長し、戦い、挫折し、友を見いだし、新たな知識と知恵を得る。顔を切られて醜い姿となった謎の少女へスターがいい。このたくましさは、まわりの少年少女たちがヘタレなので、よけいに目立つ。ただ、主要人物たちがここまで根こそぎにされてしまうと、この後どう続いていくのか心配になってしまう。
『てのひらの中の宇宙』 川端裕人 角川書店
おとうさんと子供の物語。おかあさんはガンで入院している。アンモナイトが見つかる、トンボが羽化する、宇宙が広がる。小さいけれど、大きな物語。少し幻想的なところもあるが、あまり重要ではなく、もちろんSFとはいえないが〈サイエンス・フィクション〉である。ぼくの大好きな、作者の得意な、理科小説。ミライくんは5歳で、「よつばと」のよつばみたいな口調で話す。おとうさんときたら、そんな子供にフラクタルやタンパク質の分子構造や、巨大な宇宙亀の登場する創作童話を話して聞かせる。いや、話すだけでなく、実際に外に連れ出したり、古い顕微鏡を取り出したりしてその目で観察させる。身近に同じような育て方をされている理科少年がいるので、嬉しく、そしてうらやましくなる。恐竜や宇宙が好きだったSFファンのなれの果てで、特に子供のいる人にはぜひお勧めの一冊だ。
『ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス』 ジョン・C・ライト ハヤカワ文庫
アメリカ人の書くのはニュースペースオペラと呼べるのかとか、そういう議論もあったけど、分厚さといい、内容といい、英国産のニュースペースオペラのご同類といっていいだろう。実は面白かったのだが、帯にあるような「黄金時代のSFのおもしろさを21世紀によみがえらせる冒険SF」といった面白さとはだいぶ違う。ドラマ的な舞台設定こそ、バロック調でスペースオペラ的ともいえるけれど、描き方がまさにコンピュータ・エイジの小説(小説といっていいのかとさえ思える)。とにかく読みにくい。読みにくい一番の理由はやたらと長い、また意味不明なカタカナ言葉が次から次へと出てくることだが、もう一つの理由はこのシンギュラリティ以後の世界の、シンギュラリティに取り残された側ではなく(英国産ニュースペースオペラはこっちが多かった)、突き抜けてしまったポスト・ヒューマンの側を描いているからである。もっともレムなんかと違って、あくまでベースはとてもポスト・ヒューマンとは思えないような普通の人間(というか、バロック調な、劇中劇風な人間)なのだが、リアルと仮想の区別がほとんどなく、いくつもの世界のレイヤー(層)が重なっていて、しかも登場人物たちはそれを当たり前のものとし、フィルターを変更することでレイヤーからレイヤーへ自由に切り替えることができるとか、自分の意識をマルチタスクで動かしたり、タイムスケールを変えたり、コピーしたりといったことがごく当たり前のように描かれている。ある意味多次元宇宙を自由に行き来する人々なわけだが(そのわりには、リソースのローカリティにこだわっているのは、やっぱり帯域の問題とかを考えているのかな)、その限界も含めて、現代のコンピュータの世界と違和感なく(それがかえって何万年も未来の世界という設定との違和感を醸し出しているわけだけれど)、コンピュータおたくにはとてもわかりやすい世界観なのかも知れない。そういう意味では良いアイデアだと思ったが、逆に現在のコンピュータ・プログラムの世界に詳しくない人には、全く何が起こっているのかすらわからないかもなあ。ストーリーは、というと、まさに三部作の第一部なわけで、主人公が絶体絶命のどん底に落ちたところで第二部へ続く、となっており、この長さでもまだプロローグな感じ。第三部の終わりまで読まなくては何ともいえないのだが、早く最後まで読みたいという気にさせる。とにかく読みにくいので万人に勧めるには躊躇するが、実はなかなかの傑作である。
ついでに、飛浩隆の『ラギッド・ガール』に関する追記。『ラギッド・ガール』でも、主体は仮想世界のAIだったり、「情報的似姿」だったりする、つまりはポスト・ヒューマン側に主体があるわけだけど、本書とはずいぶんアプローチが違う。『ラギッド・ガール』の世界では、極端にいえば小説の登場人物であっても、それを読者が感情移入して読むとき、かれらには意識があり生きているのだという感覚がある。コンピュータの中ではなく人間の脳の中で走る仮想意識。したがって、それは完全なものである必要もない。わりあい単純な割り切ったシミュレーションであっても、そこに意識が生じるのだというアイデアは、どこまで認知科学的な検証に耐えられるかは別にして、面白く、SF的な説得力があるといえる。
『ティンカー』 ウェン・スペンサー ハヤカワ文庫
ただいま今年出た本を消化中。本書の帯には、魔法が支配するエルフホームに転移したピッツバーグを舞台に天才美少女ティンカーが大活躍!とある。魔法と科学が共存していて、こういうのをアンノウン型ファンタジーというのだ、とかいえば、若者にSF用語を教えたことになるのか。まあアンノウン型ファンタジーなんてどうでもいいや。ヒロインは昔のアキバ系ジャンク部品オタクみたいな、よく映画にでてくる、そこらのがらくたから何かすごい機械を作ってしまうタイプの女の子。でも恋には興味があって、だけど実はとってもウブで、とまあ、実はロマンス小説のヒロインなんですね。何しろエルフの貴公子と成り行きで結婚してしまい、別の異世界から来た鬼や天狗と戦う……という話。こういう話に理屈をいってはダメで、素直に波瀾万丈なストーリーを楽しむしかない。でもヒロインが天才のわりには結構、いや相当におバカではた迷惑な困ったちゃんなので、取り残されてしまう人たちがとても可哀想になってしまう。前半で重要な役割をもつ人たちが後半、ほとんど無視されてしまうのは、ちょっといかんと思う。それとロマンチックなのはいいけれど、時々本当に女性作家が書いたのか、と思うような鬼畜な描写が出てきてびっくり。あ、オニやキツネの話だから鬼畜でもいいのか。納得。