続・サンタロガ・バリア (第53回) |
なんとなく長い7月だ。クラシック・コンサートに2回行ったせいもあるかな。ひとつは東京出張時のサントリー・ホールで沼尻竜典指揮の新日本フィル。野平一郎(のだいらと読む)という人の新作(ほとんど寝てました)とラヴェルの「ダフニスとクロエ」全曲版。その日のオーチャードやトリフォニーは演目無しということで、聴いておこうか程度のつもりだった。オケとコーラスで総勢200人というダフニスの全曲版を生で聴けることはそうないしね。当日券を買いに並んだら、先客の女の子が学生席(2700円)で一番良いところを下さいって頼んでいた。売り子のお姉さんは気を利かせたようだった。で、自分の番になってA席に6200円を払って2階の後ろ、ステージに向かって右ブロックの一番中央寄りに座ったら。同じ列の中央ブロックのど真ん中にさっきの女の子が座ってやんの。もう1000円奮発して中央ブロックを取っていたら女の子の隣だったかも、ってそれはストーカーというヤツですね。
地元へ帰って翌週、広響をバックに長原幸太のソロでモーツァルトのヴァイオリン協奏曲4番「軍隊的」を聴く。大植英次率いる大フィルの若きコンマスだが、生まれは地元である。「軍隊的」は数年前やはり地元のホールで千葉純子(オケはチェコの室内管弦楽団)で聴いて気に入ってしまいCDも買って時々聴いている。長原幸太は持ち前のやわらかく温かいひびきに力強さが加わっていい感じだ。鋭く強烈な音のヴァイオリンが流行る中、千葉にしろ長原にしろ温かい音色が日本のソロ・ヴァイオリンの行く道を示しているようで興味深い。長原はアンコールにバッハの無伴奏パルティータ2番からサラバンドを弾いたけれど、こんな音色で奏された無伴奏も珍しかろう。
『みるなの木』の表題作を読んで以来久々に読む椎名誠『砲艦銀鼠号』は椎名誠SFの味わいでいっぱいの連作短編集。遠未来な感じの舞台設定だけれど当たり前に日本の地名が出てくるので近未来なのだろう。「未来少年コナン」の舞台設定でのらりくらりと素人海賊業を続ける3人男の遍歴奇譚とでもいうか。この20年で椎名誠的SF奇譚の書き手もずいぶん増えた気がする。
チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』はSFマガジンの連作を読んでないこともあって、もっと強面する作家かと思っていた。確かに、いきなり空から電話が降ってきてベルが鳴り受話器を取ると楽しませてくれというつかみは最高だ。この作者は『果てしなき流れの果てに』を読んでるのか?と思ったくらい。そうはいっても全体はコミックなスペース・オペラで、楽しく読めてしまったとはいえ、もうちょっと違うものを期待していたんだよねえ。SFマガジンの特集解説だけを読んでいるとハードSFが何かブレイク・スルーを迎えたような感じがするんだよ。そうじゃなくてリニューアルされた楽しさといわれればその通りなんだけど。エンターテインメントSFとしては文句無しの出来だしね。
浅倉久志『ほくがカンガルーに出会ったころ』を読んでると懐かしいというより、この文章は丸ごと頭に入っているなあ、と思うことの方が多い。1970年以降に書かれた浅倉さんの訳者後書きやSFスキャナーをほぼリアルタイムで読めたことはやはり幸せの種のひとつであったんだろう。こうしてまとめて読むと浅倉さんのシレっとした底意地の悪さがユーモアに包まれて顔を見せているのがよく分かる。昔箱根でSF大会があったとき、ゲストで前に座っていた浅倉さんに、ゼラズニイは文体がカッコイイです、と客席から声を掛けたら言下に否定されたのをいまでも覚えている。
今回の東京出張はろくな資料が見つからず、神田古書店街も同様。自分用に買ったのも吾妻ひでお『うつうつひでお日記』と小松左京『SF魂』ぐらい。吾妻ひでおの日記は非常に興味深いが、一気読みは不可能に近い。前作はそれでもいくつか環境の変化があったけど今回はほぼ変化無し。自己観察の全体的なトーンはあとがきの『失踪日記』バカ売れ編でもそのままで吾妻ひでおのシビアな世界観を感じさせる。
小松左京は薄い新書ということもあって帰りの新幹線で名古屋まで保たず、物足りない。小松左京の60年代から80年代の分厚い回想記が欲しいところ。小松左京もアシモフ並の自伝が必要だろう。日記は付けてないだろうなあ。
行きの新幹線で読んでいたのが京極夏彦『文庫版 今昔続百鬼 雲』。相変わらずの読みやすさだが、小粒な感じは免れない。この凸凹コンビはいまひとつ上手く動いていないような気がする。語り手と多々良先生の立ち位置が読んでてよくつかめないのだ。最終話あたりで凸凹コンビもようやく落ち着いてきたかなあと思っていたら京極堂登場(そのほかに刑事も)だ。まあ最初に舞台設定が京極堂シリーズと同じだということを断ってあるのでそれもファンサービスということなんだろうが、これで初めて京極堂キャラ読む読者は可哀想だな。それともそんなヤツはいないのか。
徳間の新人賞赤本、タタツシンイチ『マーダー・アイアン』は変な作品だ。サイボーグ009へのオマージュとして書かれているのがあまりにもはっきりしすぎていて、これに比べれば山本弘の短編はまだ一般性があったといえる。原作を知らないもしくは原作に何の思い入れもない読者の方がたぶんこの作品を面白く読めるのかも知れない。物語の内容は原作のサイド・ストーリーみたいなものではなく、オリジナルな内容になっているが、あまりにも直接的に00ナンバー・サイボーグのイメージを利用しているため、昭和40年代に小学生として熱心に元ネタのマンガを読んでいた人間には違和感がありすぎて困った。作者の思い入れの強さは作品にぎこちなさを与えているうえ、エンターテインメントとしてもストーリーテリングよりも作者の思い入れの方が優先されているように見えてしまって辛いものがある。ところどころで引き込まれるようなシーンが展開されているのでもう少し冷静な換骨奪胎版が読みたい。
ハヤカワSFシリーズJコレ最新作、石黒達昌『冬至草』はこのシリーズきっての異色短編集。異色さでは『フィニイ128のひみつ』以上だろう。かろうじてSFらしさを醸しているのはSFマガジン掲載の「希望ホヤ」と表題作。科学実験テーマの「デ・ムーア事件」と「アブサルティに関する評伝」もSFの匂いがしないでもない。後の2作はSFと呼ぶにはちょっと躊躇するだろう。しかし、これだけSFプロパーの手付きが感じられないSFも珍しいし、これがJコレで出るというのもなかなか凄いことだ。幻想小説といえないこともない「月の・・・」は村上春樹が書いても不思議はないようなストーリーを持っているけれども文体はあまりにも違う。石黒達昌という作家の文体の生真面目さはエンターテインメントには向いてないようだ。ただそれは作品がつまらないとか退屈だというわけではなく読むことに読み手の努力を要するということを意味しているに過ぎない。SFファンは「目をとじるまでの短かい間」のミオちゃんに『黙示録3174年』のレイチェルを重ねてもいいかも。
先月読んだのに忘れていた田中哲弥『ミッションスクール』は田中哲弥のパワーが感じられて面白い。これもラノベという種類のものかも知れないが、下ネタの使い方がヤングアダルト向きではなかろうということが十分納得できる。笑えるのは確かだが、誰に向かってウケを取りにいっているのか不明といえば不明な作品でもあるな。
何故か読み残していたスティーヴン・バクスターのジーリー・クロニクル・シリーズ『プランク・ゼロ』、『真空ダイヤグラム』。そのまま読み逃していてもよかったんだが、なんとなく読みたくなったのだった。いやさすがバクスター、小説が下手だなあ。おまけに人類文化や人間的思考が、生命形態はどうであれ、説明無しに何百万年も保存されているというのでは大人の読み物にならんよな。まあ大抵のSFはバクスター以上にその手のことに無頓着なんだが。不満はあれこれあっても楽しいことは楽しいので許しちゃうんだけど、『シンギュラリティ・スカイ』なんかではそこら辺が気にならないのは、処理がスマートだからなのかそれともコミックな世界だからなのかな。