続・サンタロガ・バリア (第49回) |
実家が取り壊しになるとのことで、休日はずっと本詰め。日本の本てどうしてこんなに重いんだろう。洋書SFはハードカヴァーでも大して重くないのに。まあ、親父の医学書は洋書でもずしりと重いが。A5版以上のハードカヴァーで1000ページ以上なんていうのがザラだし、解剖学系統は巨大だ。ガキの頃解剖学の図版を見るのは好きだった。もうみんな捨てるけど。
懐も時間も余裕がなかったのだけれど、次に聴けるのがいつになるか分からないという理由で、ロンドン交響楽団を聴きに行く。お金がないので2階の端っこ。指揮は毎度お馴染みチョン・ミョン・フンで、曲はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とマーラーの5番。若手ラクリンのソロは美音な上に音が大きく響く。オケの配置でトランペットがやけに離れてぽつんと目立つ位置で鳴らしているのは印象的だった。マーラーはチョンが得意としてるかどうか知らないけれど、かなりオケの自発性に任せたような感じ。終楽章なんかバルトークのオケコンもかくやという大オーケストラのドンチャン騒ぎ。ズゲーって思うことは思ったな。帰りに音楽仲間に訊いたら1階ではトランペットが耳に突き刺さってかなり聴きづらかったらしい。
山本弘『まだ見ぬ冬の悲しみも』は最初の短編「奥歯のスイッチを噛みしめろ」が「サイボーグ009」のオマージュみたいなものだったので、後の短編に対する感想もそういう感じで読んでしまった。後半の短編の方が印象に残るものが多い。「シュレディンガーのチョコパフェ」も楽しいが、なんといってもムーア/カットナーを登場させた巻末の「闇からの衝動」に一番惹かれる。
河出の奇想コレクションは今回、ゼナ・ヘンダースン『ページをめくれば』ということであまり期待していなかったのだけれど、読み終えてみればやはりそれなりに良い短編集になっているなあと感心させられた。昔「光るもの」を訳したことがあるので、この作品については愛着が深い。ソノラマで「ベッドの下の世界」なんてひどい訳題が付いていて怒ったことを覚えている。その訳を読んだかどうかは覚えていないが。今回新訳で読んで「まるで積み重ねられたのように」という文章が当時頭にこびりついていたことを思い出した。今回の短編集を読んで強く感じたのはゼナ・ヘンダースンの作品に漂う強烈な不安感だった。ヘンダースンは時代の暗さに敏感に反応していたんだ。
評判のいい『海の底』を飛ばして有川浩『図書館戦争』に突入。いろんな意味でカワイイんだが、どうやら覚悟の上の「カワイイ」をやっているようだ。沢山の小説で描かれている「カワイイ」くないものを断固拒否しているように見える。それはそれで素晴らしいことだけれど、この先どこかで「カワイイ」くないものを導入せざるを得ない時が来そうで怖いなあ。これが天然/天才ですというのなら凄いけど。ミリタリーじゃない方向もあるのかな。
ちょっとビビってよむのが遅くなったジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』は、ここ数年で表題作を何回か読んでいるお陰で割と楽に読めた。序文のオマケ「島の博士の死」がジョークのような趣向になっていて「死の島の博士」ともども結構気に入っている。「アメリカの七夜」は何故かとても懐かしい。ミッキー・スピレーンの短編を思い出したんだけれど、その短編のタイトルが思い出せない。まあ日本人としてはあまり気分の良い作品ではないが、面白いことには変わりない。「眼閃の奇蹟」は、ああカトリック作家の小説だ、と感じられはしたのだが、どこがどうカトリックなのかというとよく分からないんだな。きっと主人公の少年の「眼が見えない」という境遇にあるんだろうと思う。相変わらず大変な水準の高さを示す作品集ではある。
1年待たされた女神様、清水マリコ『侵略する少女と嘘の庭』は2時間足らずだけれど至福の世界。中学生の日常とちょっとあり得ない淡い恋のなりゆきに50男が萌える訳もないが、清水マリコの魔法には萌えるんだな。思えば10年くらい前、水鏡子師が美少女ゲーム(あの頃は、エロゲーって呼ぶな、と仰っておられた)にハマッて、電脳紙芝居のどこが面白いとビデオゲームに興味のない人間が様子見にエロゲーノヴェライズを手に取ったら、それが偶々清水マリコのパラダイムデビュー作だったというわけで、その文体の衝撃はほとんど雷電のようだった。いまや清水マリコもブログをやっているけれど、そこでの文章に小説と同じだけの魔法は感じられない。それは小説の言語の中にやどる祈りの有無だろう。