内 輪   第181回

大野万紀


 今年の京フェスは例年より1ヶ月早く、10月8日開催です。本会の企画にも声をかけていただいていたのですが、仕事の都合で合宿からの参加になりそう。合宿企画のひとつに出演することになっているのですが、まだなーんも考えていません。どうなることやら。
 編集後記にも書きましたが、11月号のSFマガジンに地球環境問題とSFというテーマで拙文が掲載されています。大した事は書いていないのですが、アメリカのハリケーン被害と重なったのには驚きました。シンクロニシティというやつですか。でも因果関係と相関関係とは本来別のものなので、よく考えないといけませんね。地球環境問題とは直接関係ありませんが、トンデモでよくある相関関係と因果関係の混同ということについて、菊池誠さんがブログに書かれています。面白いので、ぜひ読んでみてください。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ホーンテッド・ファミリー』 草上仁 朝日ソノラマ
 明るいホラー。曰く付きの幽霊宇宙船を掴まされた家族の話。そこに量子力学と数学と経済学がからむ。さらに胴長短足の犬が登場しなければならない。とまあ、後書きにあるとおりのお話だ。まあその、面白いことは面白いんだけど、草上仁に期待する水準が高すぎるのか、ちょっとスケールが小さいというか、とりわけ前半の、ホラーなできごとが連続してヒロインの美少女が恐怖するというあたりが、ちょっともたついていて、疲れる。「怪奇大家族」を思わせる家族の描写はいいんだけどね。

『マジック・キングダムで落ちぶれて』 コリイ・ドクトロウ ハヤカワ文庫
 カナダ出身の若手作家のローカス賞受賞作。フリーエネルギーで労働の必要がなくなり、バックアップした意識をクローンにダウンロードすることで不死となった人類(おいおい、それって不死じゃないだろう、という突っ込みは「古くさい」とされている)。そんな世界で、楽しみのためにボランティア(本書ではアドホック)グループを作ってフロリダのディズニー・ワールドで働いている主人公。彼は自分が殺された事件の謎を追い、愛するホーンテッド・マンションを今風に改造しようとする別のアドホックたちと戦おうとする――という話なのかなあ。一応そういうストーリーはあるのだが、話自体は恋人と親友との三角関係とか、すごくせせこましくてちっとも未来的じゃない。SF的な設定はあんまり関係ないみたいだ。アメリカのIT族って、こういうのを面白がるのかなあ。一種のオタク話というか、変な人たちのお話。

『空獏』 北野勇作 ハヤカワSFシリーズJコレクション
 北野勇作の新作は、例によってあの黄昏れた世界を舞台にした連作だが、今回は夢の中の戦争というコンセプトで統一されている。獏、西瓜、工場と社員寮、川と商店街といったおなじみのテーマが繰り返し現れるが、今回主人公たちは誰かと戦争しているのである。塹壕を掘ったり、行進したり、屋根の上に展開したり、突撃したり、でもあんまりやる気はないし、だるい戦争なのだ。でも戦争だから銃弾にバラバラにされたり、首をちょん切られたり、相当悲惨な状況にもなる。けれど半分は夢だから、現実感には乏しく、ただもういつまでも続くだるさと閉塞感、何かはわからないが大切なものを失ったという喪失感が全編を覆っているのである。

『今ここにいるぼくらは』 川端裕人 集英社
 関西から関東の田舎に転校してきた小学生の、卒業までの連作短編。さすがにSFだとはいえないのだが、海へ、そして宇宙へまでもつながっているだろう川の流れや、学校の屋上から見るペルセウス座流星雨、この町と子午線の町とでは同じ時刻の影の長さが違うことの発見、そういう少年の発見の物語は、当たり前のように繰り返される日常と、ここではない別のどこかとの間に、ファンタジーではない、理科的な、科学的な、現実的な通路があることを気付かせてくれて、それはある種SFのセンス・オブ・ワンダーと近しい関係にあるのだと思わせる。ハカセと呼ばれる理科少年は、時代や背景からもおそらく作者にきわめて近い存在なのだろうが、とても輝かしい未来を内包した存在である。物語的にはたわいのない話なのに、例えば未来を喪失した高校生たちの物語を読んだ後など、本当にほっとするのだ。唐突だけど、21世紀のSFの新しい形として、科学小説というものを考えてみたい。空想科学小説ではなく、科学小説。宇宙的・普遍的存在としての科学と日常感覚のぶつかり合うところから広がる、衝撃や驚き。川端裕人の書く小説には、そういうものがあるように思う。

『デカルトの密室』 瀬名秀明 新潮社
 大作であり、力作である。読むのにずいぶんと時間がかかってしまった。ロボットの物語であるが、書かれているのは人間の意識についてである。ロボットのケンイチくんの一人称で描かれているパートがあるので、読者はロボットが自意識をもっていることを、この物語の中では自明のこととして受け入れてしまうだろう(だが、叙述トリックという可能性もある。このパートを書いているのがケンイチ本人とは限らない。本書はそういう、視点の混乱をわざと狙ったような描写が多く、それも読むのに時間がかかる一因となっている)。本書には、様々な人工知能研究のキーワードが出てきて、人工知能や認知科学の最先端を描くハードSFのようにも読める部分があるが、しかしそれは本書の中ではあまり重要ではない。最大のテーマは人間の自意識が自分の身体、脳に閉じこめられているものなのか(すなわちそれが「デカルトの密室」)ということであり、意識が例えば電脳空間にアップロードされて、あるいはロボットにダウンロードされて、さらには別の人間に乗り移って存在することができるのか、あるいはそれが自由というものなのか、という議論である。確かにイーガンなどの最新のSFと同じテーマを共有しているのだが、作者はそれを思考実験するよりも、あいまいなまま混乱したカオスとして、読者に問いかける。鍵は色々あるけれど、それを結びつける論理ははっきりと描かれておらず、はぐらかされた感じが残る。意識の連続性についても、毎朝起きたとき、きのうの自分と同じであるなどという言葉で煙に巻かれる。本書の中では、身体性を離れた意識という存在にあまり肯定的な評価は与えられないようで(ロボットの意識にしても、それは人間と同質のものとしか描かれていない)、そのような「自由な」存在は悪いことをする非人間的なものとされている。結局、意識=心には倫理、人間性が重要で、「よいこと」をするには一定の形をもった連続性が必要ということらしい。作者がそこで持ち出しているのが「物語」の重要性である。意識の存在は物語を語ること、あるいは語られることに関連する。物語とは、ある時間線にそって存在するイベントやシーンに、主人公(人間でも、ホビットでも、ロボットでもかまわない)の意識がどのように相互作用するかということであり、そこで主人公の(倫理的な)意志決定が重要となる(この意味では物語は結局線形なままであり、例えば様々な分岐を全て含むゲームの総体のようなものはどう扱えばいいのか、などと色々疑問が出てくるのだが)。何かを信じ、意志決定することにより、何が現実で何がバーチャルかということも重要ではなくなる。〈私〉の責任によって「よいこと」と信じる道を選択するなら、それが〈私〉にとって正しい現実なのである。はっきり記されているわけではないが、そのように読める。電脳空間に遍在し、同時に複数の場所にいるような意識には倫理的な責任がとれず、他者の存在を理解することもできない(本当にそうなの?)。まあ、色々と読者に考えさせてくれるわけで、大変哲学的な小説なのである。何か、SFというよりは、やっぱり中井英夫とか、ああいうペダンティックなミステリを思い起こすなあ。後、ひとつとても気になったのは、敵のヒロインが病気のため他者の心を理解できないという設定で、実際に存在する障害を扱うにはもう少し配慮があった方が良かったのではと思った。


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