みだれめも 第180回

水鏡子


作品 著者 出版社 総合 作品性 興味度 義務感
『輝く断片』 シオドア・スタージョン 河出奇想コレクション ★★★★☆
『海の底』 有川浩 メディアワークス ★★★★☆
『バースト・ゾーン』 吉村萬壱 早川書房 ★★☆
『陰陽の京』 渡瀬草一郎 電撃文庫 ★★★
『陰陽の京 巻の二』 渡瀬草一郎 電撃文庫 ★★☆
『陰陽の京 巻の三』 渡瀬草一郎 電撃文庫 ★★☆
『陰陽の京 巻の四』 渡瀬草一郎 電撃文庫 ★★☆
『マリア様がみてる 薔薇のミルフィーユ』 今野緒雪 コバルト文庫 ★★☆
『クラッシュ・ブレイズ ヴェロニカの嵐』 茅田砂胡 中公Cノベルズ ★★★

 スタージョンの中短篇から好みの5篇を選ぶのは、かなり悩ましい。それでもたぶんそのうち三つは「孤独の円盤」「赤ん坊は三つ」「リューエリン向きの犯罪」に落ち着くと思う。ベスト5と言いづらいのは、作品として評価はできても、病的な気配に辟易して、気持ちとして距離を置きたくなる話がけっこうあるからだ。「ビアンカの手」なんかその典型。挙げた三つの中では「赤ん坊は三つ」はかなりその気が強い。
 「孤独の円盤」「赤ん坊は三つ」が発表されたのは52年の後半から53年初頭にかけて。この時期には他に「反対側のセックス」とか「帰り道」といった佳品が発表されている。スタージョンの才能が一番光輝いていた時代だと思う。
 一方「リューエリン向きの犯罪」は57年。「もうひとりのシーリア」「空がひらける」「墓読み」「不思議のひと触れ」などがこの前後に発表されている。未訳作品を読んでいないので断言しづらいけれども、完成度を増している反面、SFというしがらみから抜け出している印象が強い。スタージョンのヘンさを無理やりSFのきれいごとの枠組みに押しこめたようで、妙に落ち着きの悪い、そしてそれがけっこう魅力だったりする作品(「空がひらける」など)の集まった『奇妙な触れ合い』。じつは『一角獣・他角獣』よりこちらの方が好きだ、というのは前に言ったっけ。そのなかでも、とくに気に入った作品が「リューエリン向きの犯罪」だった。人に知れない秘密を支えに日陰の人生を送ってきた男が、存在基盤を崩されて、次々悪事に手を染めていくのだが・・・。
 いかにもスタージョンらしい視点と仕掛けに満ち溢れていながら、これくらい他人の目から見てユーモラスで、当人にとって深刻で切実な、おまけに愛にも満ちた小説は、スタージョンでも珍しい。大いなる「愛」のなかで窒息する、窒息させられる、窒息していくという強迫感。これはスタージョンの非ハッピーエンド系の傑作に共通する要素だ。SFでもなんでもないという問題が残るのだけどね。
 この話を「ルウェリンの犯罪」として収録したのが『輝く断片』である。テーマ、モチーフがしぼりこまれて、偏執狂的心理と逆説的認知論理が変奏される、スタージョンの短編集としても最良最強の作品集となった。そのぶんSFっぽさが無茶苦茶弱くなったけど。
 たぶんそのことも短編集にプラスに働いている。
 『SFベスト201』の伊藤さんの序文のなかで、たぶんガイドブックでは初めて書かれたのではないかと思うのだけど、SFは腐るのである。ふつうの小説はあたりまえの素材をあたりまえとして書くのだけれど、SFは、その時点においてあたりまえでないと作者が感じているものを「説明」していく。あたりまえでなかったものが、ありふれたものとなった時点で、あたりまえでなかったことを前提に組み上げられた文章や仕掛けやテーマはどうしようもなくピントはずれなものになる。それが「腐る」ということである。いちばんたちの悪いのが腐りかけの状態で、現在の自分の心境とも共鳴しあう優れた洞察や味のある文章が、腐った説明や表現とないまぜの不協和音になって読み心地を悪くする。ある程度年数が経つと、現在性を喪失し、腐った肉も殺ぎ落とされて、恐竜の骨格見本みたいな光沢を浮かびあがらせてきたりする。「稚拙」の「拙」より「稚」が評価されるようになる。続けさまに出たスタージョンを読んで、ちょっと意外な発見があった。ぼくが昔、30年代の初期作品は別にして、いちばん腐って見えて苛立ったのは第2次大戦後の倫理色やメッセージ色の強い作品だった。「雷鳴と薔薇」とか「空は船でいっぱい」とか。
 それが今読むと現在につながるヘンなリアルさが抜け落ちて、素直に、ただし距離を置いて読めてしまう。逆に50年代の中途半端な作品に腐りを感じるようになっている。それだけ時代が遠ざかったということだろうか。それともぼくが年を食ったということなのだろうか。
 そういう意味でSFっぽさに薄い『輝く断片』は、50年代中心の作品選定でありながら腐りが少ない。病的気質も当時より今のほうが受け入れやすい。
 集中のベストは後半の3篇。「マエストロを殺せ」「ルウェリンの犯罪」「輝く断片」でいずれも非SFというところが悩ましい。
SFのアイデアとしては「君微笑めば」の動機が、いかにもスタージョン的。「スーパーマンには、スーパー孤独やスーパー飢えがある」という作家である。スーパー頭痛という発想はうまい。「ニュースの時間です」は「ルウェリンの犯罪」と同じような設定から人類レベルにマクロ展開されていく。最後が強引で傑作に成り損ねた。
 表題作「輝く断片」を、編者は「孤独の円盤」や「不思議のひと触れ」の変奏と位置づけているが異議がある。むしろ「ビアンカの手」の裏ヴァージョンと見るべきではないか。すでに収録済だからしかたがないけど、この短編集に「ビアンカの手」が入っていたらさらに重厚度を増していたなと思う。
 

 突然海から横須賀基地に全長1mの人食い巨大エビの大群が上陸する。停泊中の潜水艦「きりしお」で当直していた夏木と冬原は、エビの群れから逃げてきた子供たちを助け出し、「きりしお」内に閉じこもる。一方、外では機動隊による巨大エビ迎撃作戦が展開される。有川浩の第3作。「潜水艦で15少年漂流記」というフレーズは言いえて妙。話は小粒になったけど、その分、身が締まった。前作同様、悪役キャラの落しどころが優しくて、作品に品格を生む。同じ(でもないけれど)潜水艦ものということで、キャラの設定や配置、物語の展開など、『終戦のローレライ』と印象のかぶるところがあるけれど、影響を受けたとしても、建設的な技術的吸収とでもいうべきものだ。(著者は読んでなかったりして)。前作の繰り返しになるが、ある意味古風な教養・青春小説で、ライトノベルというより極上のジュヴィナイルSFである。高畑京一郎なんかに近いか。ついでに前作と同じティプトリー見立てをすれば、本書はもちろん「最後の午後に」ということになる。

 テロリストに蹂躙される近未来の日本という触れ込みに、ふーんと無視していたら、書評や紹介で、大陸に渡ったあとの第二部は「クチュクチュバーン」みたいになる、と言われて慌てて本屋に走った。
 結果的に面白かったのは、悲惨な日常生活が酷写される第一部。
 悲惨な日常のなかで生にしがみつく庶民の生き様が克明に描き出される。
 第1部で登場した主要登場人物が大陸に渡って神充の襲撃をかいくぐりながら地区を目指していく第2部は、長すぎるし、登場人物の交錯もあまり小説美学的な構成がなされていない。いいかげんなものに見える。「クチュクチュバーン」みたいなへんな生き物が出てくると聞いたのに、「クチュクチュバーン」に出てくるようなへんな生き物が実質1種類だけ出てくるだけで、その生態や能力もいろいろ書き込みすぎてかえってご都合主義っぽい。

 渡瀬草一郎の陰陽師もの。シリアス・タッチのなかにラブ・コメ(多数)を交えて、癖のあるキャラと人間関係を紡いでいく。ある意味ライトノベルの王道、年長者の鑑賞に堪える構成・文章。評判の良かったシリーズで、まとめて読んだ。よく書き込まれた世界で、第1作は幕開けとして型どおりながら文句のない出来。ただ、2作、3作と続いていっても、ドライブしていかない。ひとつひとつが良く考えた、しかしある種型どおりの作品でシリーズ的に見た場合番外編的レベルで完結していく印象がある。単発作品を交錯する人間関係のひもときとラブ・コメの進展で繋いでいる印象で、大きな物語として立ち上がらない。人と化生があたりまえのように触れ合う世界としての世界構築も「少年陰陽師」のようにマンガちっくにするなら別だが、シリアスで進むならもう一骨格いる気がする。
 文章とか登場人物のキャラも人間関係も好感ものだか、もう一化けしてほしい。

 茅田砂胡の今回のシリーズ、シリーズ自体が全体シリーズの番外編・夏休み号みたいなもので、やや物足りない。とくに、ぼくは『スカーレット・ウィザード』派なので、キングとジャスミンの出番が少ない今回は、その意味で期待はずれ。
 


THATTA 207号へ戻る

トップページへ戻る