内 輪   第175回

大野万紀


 福岡の地震にはびっくりしました。大都市を襲った地震でも、神戸のような大きな被害がなかったのは不幸中の幸いだったと思います。何かがちょっと違っていたら、と思うとぞっとします。
 海賊というと、どうしてもカリブの海賊みたいなイメージが頭に浮かびます。現代の海賊には、海賊という言葉は使ってほしくないですね。海上強盗団とか、そんな感じでしょうか。その他の話題としてはライブドア対フジテレビでしょうか。始めは面白かったけど、もう飽きました。うっとおしい顔のおっさんらがわいわい言っているだけですからねえ。
 ドラクエ8がやっと終了。時間がないのでちまちまとやっていたけど、けっこう面白かったです。ストーリーはどんどんエスカレートしていくだけで、あんまり面白みはないのだけど、キャラクターたちのほのぼの感が良かった。
 話題のmixiに参加しました。なるほど、昔のパソコン通信の雰囲気だ。でもなぜかみんなのように熱心に書き込む気にはならず、まあのんびりやっていこうというところです。そちらでもよろしく。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『攻殻機動隊 眠り男の棺』 藤咲淳一 徳間デュアル文庫
 アニメ版の「攻殻機動隊 Stand Alone Complex」の設定をもとにした書き下ろしオリジナル小説の3冊目。今度は戦争で破壊された旧首都・東京の、荻窪あたりを舞台に、謎の老人と彼を守る超絶に強い用心棒をめぐって、素子が一人で立ち向かうという、いつものチームプレーじゃなくて、まさにスタンドアローンなお話。謎解きや戦闘(これはいつも通り、迫力満点)が実はあまり重要ではなくて、どちらかといえば時に取り残されたような古い商店街といった押井守風な風景が表に出てきて、まるでビューティフル・ドリーマーだ。ちょっとノスタルジーよりなのは、攻殻機動隊としてはどうかと思った。でもタチコマたちはやっぱりいいね。

『ルネサンスへ飛んだ男』 マンリイ・ウェイド・ウェルマン 扶桑社ミステリー
 またこれは懐かしい名前だ。訳者、野村芳夫さんが思い入れたっぷりに紹介している、1940年作のタイムトラベル小説だ。だけど、正直いって、普通の昔風な冒険小説である。タイムマシンというか時間反射機を作ってルネサンスのイタリアへ飛び、そこで活躍する主人公の話だけれど、ただの冒険小説になっていて、SF的なアイデアはほとんど生かされない。タイムパラドックスもない。わかりやすいオチはあるが、あんまり驚きはない。まあ昔の話だから調子よすぎるのはいいとして、主人公はいったい何がしたかったのだろう。これで歴史小説の重厚さでもあればよかったのだが。ストレートな物語はそれなりに面白く、決して悪くはないのだが、期待したほどではなかったというところだ。

『失踪日記』 吾妻ひでお イースト・プレス
 ある日突然仕事がいやになり、家を出たままどこかへいってしまうのを、昔は蒸発といっていたような。吾妻ひでおは一度目はホームレスになって雪の中で寝たりしていて、二度目は東京ガスの下請けで配管工をやっていたと。「全部実話です」と書いてある。家族のことなど考えるとかなり悲惨な話ではあるのだが、ほのぼのと読めてしまう。アル中になった話もかなりやばい。それにしても、アル中話に出てくるシスターは本当にどこかのエージェントなのだろうか。面白すぎる。まあでも、明日はわが身かもと思って読むんだよなあ。

『ふにゅう』 川端裕人 新潮社
 ふにゅうって何かとおもったら、母乳じゃなくて父乳ということだった。短編集だが、乳幼児と父親の関わりをテーマにした子育て小説集。母親がキャリアウーマンで海外へ長期出張したりして、幼い子供たちに毎日つきあうことになった父親たちの物語だ。ま、子供以前の、出産をテーマにした話もあるが。ぼくにとってはずいぶん昔のことになってしまうが、でもこのころの子供って、本当に手がかかるけれど、可愛いものだ。本書でもそんな可愛さは爆発していて、ほとんど親ばか状態なのだが、本書の父親たちは、ちょっと気負いすぎたのか、少し異常な方向へ行きかけている。自分の幼い子供にセクシャルな感覚を抱くというのも、実はよくわからない。5編の中で一番面白かった、というか気に入ったのは「ギンヤンマ、再配置プロジェクト」。これは最も作者らしい、科学的好奇心がヤゴの観察と子供たちの成長にうまくマッチして気持ちよく読めた。

『アジアの岸辺』 トマス・M・ディッシュ 国書刊行会
 懐かしい「リスの檻」や表題作をはじめとする未訳短編を含む若島正編の短編集。昔の話はやはり若々しい才気が感じられて、面白いし、ある種微笑ましくすらある。本書の中心にある主に70年代の作品からは、そういった若々しさは影を潜めるが、成熟した文学たろうとするわりには、やはりどこか突っ張った感じが残る。「犯ルの惑星」みたいにはじけちゃったものもあって、それはそれで面白い。「アジアの岸辺」や「話にならない男」がとりわけ印象的。そして最近、90年代の作品。「第一回パフォーマンス芸術祭、於スローターロック戦場跡」や「リンダとダニエルとスパイク」がSF者としてはお気に入りだ。特に「リンダ……」は変な話である。さて「アジアの岸辺」だが、これってまさに水鏡子がよくいっている諸星大二郎の「生物都市」のように、個が溶け合って集合的な存在に融合してしまう物語の一変形と読める。大阪に単身赴任してきたサラリーマンが、おばちゃんらにおちょくられて、しまいには同化してしまう話……嘘です。

『高い城・文学エッセイ』 スタニスワフ・レム 国書刊行会
 難解そうなので敬遠していたのだが、すごく面白く読めた。少年レムのギムナジウム時代、という感じの「高い城」がいい。これ、映画で見たい気がするなあ。途中、現代のレムが色々と考える、その理屈っぽい文章が混ざってくるのだが、そこは読み飛ばしても可。大戦前の、つかの間の平和な日常。センチメンタリズムやノスタルジーを極力排して書かれているのに、見たこともない異国の戦前の風景が、少年の思いが、まざまざと蘇ってくる感じがする。少年レムが築いていた架空の証明書の世界って、昔SFマガジンのエッセイで野田昌宏さんが書いていた遠い惑星航路のチケットの話を思い浮かべた。後半の文学エッセイは、確かにとっつきにくい。でも、ぼくのようなただのSF好きにとっては、文芸書に載っている、専門的な文学評論の奇々怪々なわかりにくさに比べれば、きわめて明解に思える。何と言ってもレムは科学的方法論や合理性を重視する。彼の理想とするSFは、日本でも30年ほど前に小松左京らが「未来の文学」として想像した、科学の方法論をもって思弁するSFにとても近いように感じる。「SFは個々の人間より、種としての人類を扱うジャンルだ」というのは、そのころから頭にたたき込まれたぼくにとっての基本線でもある。しょうもない人間ドラマ……主人公の夫婦の危機だの、ややこしい人間関係のジレンマだの……そんなものを延々と読まされる大冊SFにはうんざりさせられるのだ。とはいえ、レムはこの線を突き詰めるあまり、小説という形式さえ捨て去ってしまった。アメリカのジャンルSFの沼にほぼ全身を突っ込んでいる身としては、未来の文学とは別に、知的な娯楽小説としてのSFを弁護したくなる。スペースオペラも大いに結構だと思うのだ。レムは推理小説には上級審(例えばドストエフスキーの『罪と罰』)があるので、文学とは無縁であってもアガサ・クリスティを非難することはないが、SFにはこの上級審にあたるものがないので、SF作家はその責任を引き受けなければならないといった意味のことを書いているが、これってちょっときついと思う。ディックじゃなくても「ほっとけ」といいたくなるよなあ。ファニッシュを自称する人のサーコンに対する視線が理解できるような気がする。しかしながら、レムのSF論には(それがSFの全てではないだろうという留保付きで)基本的に同意できる。ウエルズやストルガッツキーを論じながら、私ならこう書いたとするところには、まさにレムのSFそのものの知的な興奮があり、SFの分野にこういう科学と文学の両方に詳しい口うるさいおじさんがいるということは、とても安心できることなのだ。


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