続・サンタロガ・バリア (第37回) |
3月第2日曜日の最終上映で宮崎駿「ハウルの動く城」を見る。いかに田舎の映画館とはいえ、日曜日の宮崎アニメに人っ子一人いないとは。まあ、見る方にとっては貸し切り大画面のオイシイ状態なわけだが。で、誰にも気兼ねなく真ん中後ろ寄りの席でスクリーンに没頭する。
しかし、目に映っていくものからはほとんど納得できる情報が伝わってこない。一番強く伝わってくるのは死の臭いだ。場面場面は宮崎アニメのクリシェのオンパレードで特に目新しいものはないし、ハウルの動く城の描写はすばらしいが、「ナウシカ」ではじめて動く王蟲を見たときの印象からすれば、すでに見慣れたものである。ダイアナ・グィン・ジョーンズの原作をどれだけなぞっているかは知らないが、主要キャラがまったく立っていなくて、まるで木偶人形だ。その上、表面的なストーリーはたくさんの疑問を積み残して進み、最後には何の話だったのかよく分からなくなってしまうのだ。そして残るのは魔に魅入られたハウルが醸す死の恐怖、何のためなのか分からない戦争、ヒロインの宙ぶらりんな行動と説得力のない恋物語、エンディングを見ても不安なままの世界の印象は拭えない。きっとこれは宮崎の終末感の現れだったのだ、なんてことを思いながらエンドクレジット見ようとしたら、もぎりのオジサンの早く帰れのノック、ああビックリした。
昨年の積み残しタニス・リー『バイティング・ザ・サン』をゆっくりと読む。学生時代に買ったペイパーバックは実家に今もあるだろうな。DAWブックスのあの真っ黄色な背はもう色あせたか、なんて感傷に浸るはずだったのだけれど、けっこうイケるじゃん、というのが意外な感想。タニス・リーについては『死の王』以来手を出すのをやめていて、たまに角川から出たのを読んだくらいの、どちらかといえば啓して遠ざかっている状態だった。今回はまだSFを書いていた頃の初期作品ということで読んだのだが、70年代な匂いがよみがえる懐かしい物語だった。どことなく冗長で甘ったれな異議申し立て世代のお話だけどとってもよく分かるのだ。今の若い人にはショーモないと怒られそうないい気な話だが、この雰囲気は好き。
文庫になった村上春樹『海辺のカフカ』(上) (下)を読む。勢いで『アフターダーク』も読んでしまう。村上春樹はまあ出たら読む作家だが、前回今とタイミングを逃して今になってしまった。『海辺のカフカ』は今の村上春樹の力を十分に感じさせる出来で、相変わらず「深い井戸の底」にいるようだ。個人的にはアメリカ戦略爆撃調査団報告から抜いてきたような資料の作り方に興味を引かれたけれども、そんなものを知っているのは国立国会図書館の憲政資料室に通い詰めてるような大学院生くらいなものだろう。江藤淳はマイクロフィルムが国会図書館に来る前にアメリカでいっぱい漁っていたけれど。小説の人工性を強く意識させる造りで作品自体はかなり不透明である。そこへいくと『アフターダーク』は400枚足らずということもあり、ストレートにアーティフィシャルな作品に仕上げている。19歳のヒロインはカワイイけど現実の女子学生とは関係がなさそうだ。造りはモロ映画的で、イントロとエンディングはまるで映画版「ウェストサイド物語」のパロディに見える。一夜のうちにいくつかの生の交錯がまるで偶然絡んでほどけたりする糸のように描かれる。技巧に走ったといえばそのとおりだが、過不足無く収めた感じで悪くない。
今年最初の海外SFはロバート・J・ソウヤー『ホミニッド−原人−』。ソウヤーは『ゴールデン・フリース』を読んで腹を立てて以来、まったく手を出さずに来た作家。これもまったく期待せずに読み始め、スーパーカミオカンデみたいな装置の重水の中に主人公の一人が転送されるという大業からして、やっぱりダメかと思ってしまう。その後に主要人物の一人となる女性科学者がいきなりレイプされるシーンを読んで、なんなんだこのわざとらしさはとまた怒ったのだが、あまりの読みやすさに最後まで読まされてしまった。ネアンデルタール側の裁判劇のわざとらしさも大嫌いだが、まあけっこう人なつこい造りになっていてきっと続きも読むのだろう。評価は最低に近いけどね。