みだれめも 第175回
水鏡子
○毎号周回遅れが恒例になってしまっています。ごめんなさい。紙ファンジンの時代とちがって追加記載が自由になって、締め切りのプレッシャーが弱まったのがいちばんの原因なのだけど、もうひとつ、言葉が出てこないのも大きな理由。
以前に一度(二度?三度?)老化について書いたことがある。そのとき言ったことでもあるのだけれど、文章を書くというのも、体力なのだ。
理屈を捏ねていくときに、じぶんのなかで明らかにまだもう一詰めできる感触があるのに、体力気力が続かないので、その手前で止めてしまう。そういう楽さに慣れてしまうと、それがあたりまえになって、どんどん理屈がゆるくなる。「この小説は面白かった」と書いてしまうと、あと何を書いたらいいのかわからなくて呆然とする。「面白かった」としか書けないような本ばかり読んでるような気もしなくもない。さすがに、主人公のだれそれが、かわいい!とか、凛々しい!とか、かっこいい!とか書くのは、沽券にかかわるといったふんばりどころはまだいくつか残しているつもり。
大野万紀に手渡すまえに、一応6時間くらいの時間をつくって、メモを書き出す。そういう逆算で原稿を作っていたのだけれど。
理屈云々の前に、言い回しで頓挫する。言い回しを思いつかないのではない。思いついた言い回しに、使わなければいけない単語が思い出せないのだ。思い出そうと努力したり、ちがう単語を代入したり、ちがう言い回しを考えたり、そういうことをやっているうちしんどくなって止まってしまう。そういうことがよくある。
あるいは、面白かった、と書いてしまうと、ひとつの本への言及があっというまに終わってしまって、行数が予定の半分以下で終わってしまう。
解決策はある意味簡単なのだけどね。日曜日に手渡すならば、木曜の晩くらいからとりかかる。
努力をします。
○岩波版『鏡花全集』(三刷・1987年)箱入美本が1冊350円、全巻揃い(28巻+別巻1)で古本屋に出ていた。
買っても読まないだろうなあ。仮に読むなら文庫本だろうなあ。でもこの全集が1万円なら、買うしかないよなあ。
というわけで、これだけで、また2階の本が意味もなく20キロ増えました。金子様。崩落は近い(か?)
「海城発電」というSFめいた題名の短篇があったので読んでみた。中国の海城という街で起きた事件の記事を電報で送ったものだった。「海城(市)発・電」というわけ。捕虜になった先で敵国人の看病に奮迅した赤十字の職員が、解放後下士官たちに吊し上げにあう話。つまらない。
○トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』★★★☆
社会批判を核にした小説は、品位に欠けるものが多い。社会批判というよりも社会非難というべきで、小説世界への愛着よりも、外にあるものへのあてこすりのみに執着が感じられて、読んで鼻白むことが往々にある。筒井康隆はそのあたりの機微と技術に長けていたなと、あらためて思う。あるいはむしろ筒井の品位を基準においてしまうから、大半の社会風刺の作品に、品位のなさや批判の粗雑さ、小説の平板ぶりを感じてしまうのかもしれない。ディッシュの場合も例外ではない。人間批判の色濃い話は内省に満ち、含蓄があるのだけれど、社会批判の方向が強くなるほどあてこすりめいて薄っぺらくなる。それでもさすがにディッシュはディッシュで、社会批判優位のものでも人間批判に回収していく道筋はきちんと確保されている。
異邦人として旅先の世界に拒絶される、もしくは逆に立脚基盤を崩される西洋人、というのが、旅行好きのディッシュのひとつの主要テーマとしてあるみたい。若島セレクションにとっても中心的テーマとしてあるのかなという気がしてきた。
「アジアの岸辺」「カサブランカ」「国旗掲揚」なんかがこの本でそんなことを感じさせた作品だけど、「アジアの岸辺」「ケルベロス第五の首」『エンベディング』「海を失った男」と並べると、なんとなくそのあたりに共通した雰囲気を感じる。うーむ同じ国書の「ソラリス」もそうか。
傑作として名のみ高かった「アジアの岸辺」だけど、純文学タイプの、わりと予定調和で既視感既読感の塊みたいな作品。ありふれた物語に主人公の認識論的実践が重なるところがミソだけど、つづめてしまえば諸星大二郎。一応褒め言葉のつもり。
個人的なベスト3は(1)「話にならない男」(2)「リンダとダニエルとスパイク」(3)「アジアの岸辺」
○『彩雲国物語』(1) (2) (3) (4) (5) 雪乃紗衣 ★★★☆
角川ビーンズ文庫でこの作者名、おまけに表紙が前面女の子趣味。さすがに手を出しかねていたのだけれど、読んでみたら面白い。
お家騒動が終着して、やっと末っ子の若様が即位した彩雲国。政務にまるで顔を出さず、夜な夜な男(!)を引き込む毎日に、業を煮やした重臣が、教育係として仮の妃に抜擢したのが主人公の紅秀麗。国でも一二を争う名家の娘だが、経済能力皆無の学者タイプの父親のせいで、極貧生活に甘んじている。王妃になる気はさらさらなく、夢は史上初の女性官吏。
治世下の王国を舞台にした大臣官僚を巻き込んだ皇宮ラブロマンスかと思いきや、世界はむしろ血腥いまでの乱世模様。毎回クライマックスは人死にいっぱいのクーデター騒ぎ。文体的にはときどきすべってしまうけど、構想はかなり骨太である。大量の才色血統兼備(ブラコン多数・やおい風味多数)の超絶美青年集団(手持ちのキャラの数はかなりのもの)を水滸伝と割り切れば、抵抗感なく楽しめる。基本的に国家経営型モラル小説であるのだけれど、人死にに関しては、国家安寧のためといったお題目の元、相当ドライ。
最新刊の第5巻は、赴任先での覇権闘争で、敵方トップが暗さ全開のお兄さんのため、都のお笑いグループ(多数)の出番がほとんどなく、暗い色調で推移する。お兄さんには悪霊なんかにならないで、現世に留まってほしかった。
読んだ範囲の中華風国家経営型異世界ファンタジー(主人公・女の子)としては、(1)<12国記>(2)『後宮小説』(3)『七姫物語』(4)『彩雲国物語』といった順位になっている。ドラマトゥルギー、世界構築、キャラ立ち、どの要素で順位付けてもこの順番になる。直前に読んだ須賀しのぶと比べると、作品評価としては『砂の覇王』に、作家評価としては雪乃紗衣に軍配をあげたい。
○『空の中』有川浩 ★★★☆+
『塩の街』につづく有川浩の第2作。
前作が読みづらかったといった意見を何度か聞いて、? だったのだけど、本書の読みやすさに逆になるほどと思った。記憶を浚ってみると、たしかに本書では必要なかった、読みながらの輔弼作業をしていたような感じがある。出来は格段にあがっているし、不自然さはないけれど、評価としては愛郷評論家大森望の本年度ベスト1評価よりは、大野万紀に近い。
瞬、佳江、真帆、宮じい、フェイクからなる高校生パートは抜群にいい。この枠組みのなかで終始するかぎりであれば、ファースト・コンタクトの詰めの甘さも許される範囲だ。
それぞれの人間の後悔と鬱屈が、いくつもの行動を引き起こし、世界と関わり、すべてが解消されていく物語は本当によくできている。
ジュブナイルSF(ライトノベルズではない)として文句のない作品だ。
そのぶん自衛隊部分、さらにその背後にある日本国、政府、行政組織といったところの理性的、理想主義的、現場信頼主義的なところにままごとめいた甘さがある。高校生パートが深みがあるぶん、かえって純粋さに欠ける大人の社会がこんなにきれいじゃいけないだろうと苛立ちみたいなものが残る。コンタクト・テーマとしての甘さといった大野万紀の批判にしても、こちらの枠組みに引っ張られることによるものだろう。
これは、前作にも通じる。ある意味、美風でもあるので、そうした甘さが解消されても吉とでるか凶とでるかわからないところであるけれど。
それはそうと、この世界、心象的な部分は別にして、描き出される風景は意外とティプトリーでないかという気がしている。「大きいけれど遊び好き」とか『UP THE WALL OF TERRA』とか(読んでないけど)。そう考えると、『塩の街』も「スロー・ミュージック」なんかとつながるようにも思えてくるから不思議だ。
○上遠野浩平『禁涙境事件』★★☆
○茅田砂胡『レディ・ガンナーと二人の皇子 中』★★★