続・サンタロガ・バリア  (第33回)
津田文夫


 京フェスは昼のプログラムに間に合わなかったけど、久しぶりに地下鉄丸太町から河原町今出川まで歩いて、京大前を通って「さわや」へたどり着いた。今出川まで歩いたのは20年ぶりくらいだろう。唯一参加した「万物理論」企画部屋の話はとても楽しかった。無理して読んでいった甲斐があったというものだ。息子が来ていたがみなさんにご紹介した後は大して話もしなかった。来年も来たらみなさんよろしくね。翌朝はエンディング後すぐ、眠いを連発する息子と一緒に歩いて四条河原町へ。息子のアパート(ワンルームなんとやら、らしい)を見にJR京都駅から20分の南草津へ。駅から20分以上徒歩でようやくたどり着く。1975年に大学生だった親父からすると目もくらむような贅沢な文明の利器が満載だ。トイレを磨いてさっさと駅まで歩いて帰る。四条河原町に戻ろうかと思ったが、足腰にガタが来ていたのでそのまま新幹線に乗った。

 ベンヤミン『パサージュ論』第5巻は後ろ半分が解説と索引。10月に読み終わっていたのだけど、何か書こうと思っているうちに忘れてしまった。ずいぶん長い間ぽつりぽつりと読んでいたが、ほとんどが他の書物からの抜き書き−それも訳文で10行足らずのものが多い−で構成されている本なので、どこで読むのをやめてもいいのが長持ちした理由かな。まあ、読み終わったからといって、何かを得たというものでもない。ベンヤミンはこの草稿を大事にしてたんだが、ナチスから逃れられないと覚悟して自殺した。享年48。草稿はその前に人に渡しておいたらしい。

 ベンヤミンのあとに読んだのが、桶谷秀明『昭和精神史 戦後篇』。戦前篇がおもしろかった記憶がので手に取ったが、変に著者の思い入れがあって鬱陶しい。著者は昭和7年生まれと言うから、リアルタイムで経験したことに客観的になれなかったんだろうな。三島由紀夫で精神史が終わったというのは、まあひとつのスタンダードだろう。あとはサブカル精神史ということか。昔はこの手の話が好きだったんだが、もういらないか。

 なぜか今頃読んだ中井拓志『アリス』。典型的なパニックもので、400ページあっても短編かと思うくらいストレート。共感できる登場人物が出てこないこともあってニュートラルな読後感。『アキラ』があるんだからいまさらな気もしないではないが、9.7次元を示す金色の蝶々が綺麗なのでそこは買いだな。

 急いで読んだイーガン『万物理論』は、のっけからイヤーな世界が展開していた。死んだ後まで、無理矢理生き返らされて「犯人は誰だぁ!」って怒鳴られたくないよな。このイヤーな感じはずっとつきまとうのだが、その訳は分からなかった。エピローグの微妙なハッピイエンドも「万物理論」が認識された結果と思ったのだが、何か変な感じだった。だから、京フェスの「万物理論」の部屋で志村氏の解釈に菊池博士が「分かった!」と叫ぶの聴いて、ああそういう話だったのかと納得。それにしても作中の「万物理論」一番乗りの話を延々読んでれば、だれだってこの話が万物理論を基本アイデアにしている(まあ、そうともいえるのか)と思うじゃないか。

 京フェスの行き帰りに読んだ小川一水『復活の地III』 。あまりにストレートに突き進んでしまって、うーん、おとぎ話になってしまってる。時節柄こういうさわやかさも悪くはないのだろうが、砂糖菓子みたいで照れるよ。

 京フェスで息子からようやく取り戻した仁木稔『グアルディア』は重量級なのか滞っているのかよく分からないが、田中啓文と浅暮三文以外長編らしい長編がなかった第2期ハヤカワSFシリーズjコレクションの掉尾を飾るにはいい作品だった。ちょっとライトノベルも入ってるようだし。ただ佐藤亜紀の指導を受けたといわれると、アンヘルが佐藤亜紀、ホアキンが著者に見えてしまうという弊害があるな。

 ちょっと締め切りに遅れたせいで、ティプトリーの『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』が読めた。長いタイトルだよねぇ。キンタナ・ローの1作目と2作目は昔雑誌掲載の時に読んだけど、そのときはキンタナ・ローと読むと指示されていたにもかかわらず、キンタナ・ルーと覚えていたんだな。おまけに記憶ではF&SFに載っていたとばかり思っていたのに、いま調べたらアジモフ誌だったなんて、ああショック! 


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