みだれめも 第169回

水鏡子


神林長平『膚の下』
 地味な本である。
これだけの長さを費やして、起きているのはアクション的に数週間の小さな事件。別に近年のアメリカSFみたいに、周囲のうっとうしい日常的小事件がごちゃごちゃ書かれているわけでもない。シンプルに事件が起こり、シンプルに解決されていくだけだ。それがこの長さになる。筆力のない作家なら、並の単行本の長さに仕上げるのさえ苦労しそうな話である。
 少しも冗長でない。・・・うーむ、少し冗長かもしれない。基本にあるのは、人間同士の戦闘に巻き込まれ、いやおうなしに自分の存在理由を突き詰めさせられることになったアンドロイドの自己成長の物語。登場するひとりひとりの人間とアンドロイドと機械人が、自分の生き方、在り方を、主人公の模索に照らし合わせて吐露し、意見を重ねていく。『あな魂』前史という設定もきちんと処理されているけれど、作品のなかではむしろ大枠的な面が強い。ある意味古風なビルディングス・ロマンである。
 神林長平というとディック的という表現が、<褒め言葉>としてよくでてくるのだけれど、ちがうんじゃあないだろうかとだいぶん前から思うようになっている。ディックというのは、大づかみのイメージに論理と血肉を与えていくところがあって、細部に細かな論理を積みあげることを苦手にしている。物事の存在原理を探るなかでも、思考の論理的な積み重ねの手続きを重視する神林長平とは資質的に相容れない部分がある。『グッドラック』のときに、『ソラリス』と『電気羊』と『エリア88』のハイブリッドといったけど、素材的にディックがいちばん色濃いだけで、作風や嗜好的にはレムや新谷かおるの方がはるかに神林に近いと思う。けっしてレムと新谷かおるが似たタイプだと言ってるわけではないよ。誤解のないよう。
 本書を読んで確信を得た。
 神林長平はディックという作家の影響下にはいない。
 この人が影響を受けているのは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という<作品>だ。本書はとくにその影響が顕著に現れた作品である。本書の世界全景、種々の構成要素は奇妙なくらい『電気羊』を彷彿させて、それでいて、ディックという作家性から解き放たれている。正井刑事はリック・デッカードだし、サンクに代表される生き物への愛着は、本書の収束への鍵を成し、『あな魂』の謎解きへとつながっていく。『電気羊』を彷彿させる世界の中で、アンドロイドの視点から書き直された物語。そんな評価を下してみたい。今年読んだ日本SFの現時点でのベスト。

タニス・リー『バイティング・ザ・サン』
「太陽に噛みつくな」「サファイア色のワイン」どちらも原書を持っているけど、本書を読むまで、長篇連作の前後編だと知らなかった。
 『銀色の恋人』もそうだったけど、タニス・リーという作家はファンタジイ作家の経歴に似合わず、SFのつぼをきちんと抑えることのできる作家だ。型どおりといった批判も聞こえるが、ユートピアのなかで管理される若者たちの鬱屈と、そこからの飛翔という物語を、細部の工夫と細やかな描写をまじえながら実感をこめて語る姿勢には、エンターテインメントを忘れぬ中の真摯さがある。思いのほかの拾い物。

樹川さとみ『楽園の魔女たち 楽園の食卓(後編)』茅田砂胡『天使たちの華劇』
 しゃべることがあんまりない。『楽園の魔女たち』最終巻の出来ばえにはやっぱり不満が残るけど、もったいない気持ちはあっても、腹は立たないから、まあいいや。「暁の天使たち」番外編もまあ楽しんだ。

『ロボットの時代』の解説を書き直すことになって、アシモフを読み返していました。『われはロボット』に、当時の時代風潮が反映された生々しさが感じられたのが意外だった。なんともいえないリアル感が漂う。たとえばチャップリンの「モダン・タイムス」だとか、オートメーションに対する労働組合の反発とかに共感的な、どちらかといえば思想的に左寄りのアシモフにとってスタンスの取り方の苦闘みたいなものが窺える。六〇年代に入るころにはわりと彼にとっても観念的で、あくが抜けたお題目に化した感じの、おなじみ、民衆の<フランケンシュタイン・コンプレックス>も、『われはロボット』の時代のころは、ラ・ダイット運動だっけ、機械打ち壊しといった思想と明らかに連動している。解説にも書いたのだけど、労働の尊厳を信奉するアシモフは、ついに晩年にいたるまで、コンピュータが世界を管理する話は書いても、ロボットがふつうの人々の職場を奪う世界は描かなかった。今回読み返しての最大の発見はこの点だった。


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