みだれめも 第168回

水鏡子


 原稿が消えてしまった。例会当日、最後の仕上げのつもりでパソコンを開けたら、頭5行ほどしか書いていない。3日ほど前にがんばって書いたはずの部分が消えてしまっていた。きのうの今日なら記憶をさらうのもそれなりにがんばれるけど年のせいか時間が経つと書いた言い回しさえ思い出せない。ショックで先月は原稿が落ちました。ごめんなさい。
 理由はだいたい見当がついている。うちのパソコン最近なぜか突然省エネ機能が(ときどき)発動するようになってしまったのである。しばらく入力をさぼっていると勝手に電源を落としてしまう。夜分にセーブして寝たつもりだったのだけど、うたた寝の間にパソコンに勝手に切られてしまったようだ。どうも今回のパソコンとは若干相性が悪い。
 だいたいわたしはゲームは好きだがパソコンは嫌いなのだ。今回のでもDVDドライブしかついてないので、CDのゲームができないと思い込んでて、みんなに馬鹿にされた。

 ええ、まず、反省と謝罪です。
 ひさかたぶり、10数年ぶりにSFセミナーの壇上にあげてもらったわけですが、正直、最悪に近い出来だったと思います。前回紹介したマイク・アシュリーを振り出しに、「雑誌文化としてのSF」という標題の、自由度の高い企画なので、日本、英米どちらの出版シーンにも話をもっていけるし、時間が足らないこともないだろうと、わりと安心していたのが失敗だった。アシュリーの要約から抜け出せなかった。持ち時間の三分の一をすぎても、まだガーンズバックがどうのと言っている状態で、動きがとれなくなった。退屈な話になりました。ごめんなさい。

 はじめの数十頁で、評価の定まる本がある。作者が何をやりたいか、読むとどんな気分になるか、ほぼ予想のつく本がある。コニー・ウィリス『犬は勘定に入れません』はそういうたぐいの本だ。
 上質のユーモアを基調にした古式豊かなタイムトラベル・ラブコメディ。枠組みとなるタイム・パラドックスなど手垢まみれのしかけで十分。要はヴィクトリア朝社会の牧歌的風情を満喫できる充実した贅沢な読書空間を提供してもらえるかどうかだ。はじめの数十頁の約束は期待どうり果たされた。小説技術の粋を集めたような作品だけど、技術を云々することさえ野暮になるような心地よさ。

「だったら外套をお召しになってね。それにウールのスカーフも」夫人はこちらを向いて、「主人は胸が弱くて、カタルにかかりやすいんですの」
 シリルの同類か
   (243頁)

 こういう文章が味わえるのなら、SFであるかどうかもあまり関係ない。
 うーむ。そうでもないか。本棚にある未読の『ボートの三人男』にちょっと食指が動いたものの結局手にとらなかったわけだから。
 こうした優雅な小説空間が、これまたお約束のSFじかけに包みこまれていることが、SFファンには安心しきって気持ちを委ねられる居心地のよさを助長しているわけだから。
 <まじめな>小説だとこうはいかない。<泣かせる>小説というのもやはりこうはいかない。傑作ではないかという予兆こそ、やはり最初の数十頁で発生してしまうというものの、作者が主題とどう向き合うか、どう答えを出していくか、結果を見ずに評価するのは、けっこうやばい。最初の数十頁で見えてしまうということは、つまりはその作品が凡庸であるということだったりするのである。『ドゥームズデイ・ブック』も『航路』も最後まで読んではじめて評価が確定する小説だった。しかしある意味傑作とはそういうものを指すのだろう。(ちなみに愚作かどうかということは、最初の十数頁でほぼ9割方判明する。この種の話は覚悟がつくから最後まで読んでもそんなに腹は立たない。期待にたがわぬ愚作だからだ。腹が立つのは愚作かどうかの見極めがつかず、読書に無駄な労力をかけさせられたと感じる本だ)。
 SFとしては凡庸。小説としては極上。犬猫好き必読。

 奇想コレクション第四弾はエドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』。前三作と比べると作品的評価は格段に落ちる。集中の最高作は「翼を持つ男」で、「アンクル・エナー」や「翼のジェニー」とともに、ぼくの偏愛する<翼もの>の一角を占める話だけど、傑作の凄みからはほど遠い。作品の粗さは年月の差で片付けられないところがあり、そのあたりがスタージョンとの作家的資質の差というものだろう。光瀬龍の「勇者還る」を彷彿させる「向こうはどんなところだい?」の先見性と作家性はたしかに目を瞠るものだけど、60年代に発表された「太陽の炎」を読むと、作家レベルにおいて50年代SFの基準を満たしきれなかったという印象を禁じえない。アンソロジーとしての評価としても、ハミルトンの全スペクトルを呈示したいとする編者のきもちは痛いほどにわかるけど、結果的に箸にも棒にもかからない凡作パルプ「凶運の彗星」がかなりのウェイトを占めてしまったのが痛い。他の作品には(彩りレベルにとどまるものもないではないが)そこはかと漂う、日本のハミルトン・ファンの好むところの光瀬的虚無感、無常観もほとんどない。ハミルトンの未訳が読めたというだけで、ぼくとしてはじつは満足しているのだけど、客観評価としては「だめな本」。
 ただし、矛盾しているようだけど、読めてうれしかった、読んで満足したという意味では、本書の価値はぼくにとって『夜更けのエントロピー』より上位につく。『犬は勘定に入れません』で述べたように、読む前からどんなものを読まされるか見当のつく本であれば、読まされる予定に合わせて自分のきもちを本に寄り添わせることができるから。ハミルトンの相貌がこんなかたちでまとめられるのを見る喜び、それもまた読書のひとつの醍醐味である。

 読書詰まりの原因のひとつだったケリー・リンク『スペシャリストの帽子』。やっと読み終えたので、消えた原稿ではかなりうだうだ書いたのだけど、二度くりかえす気にはならない。どこまでが作家的個性で、どこまでが(文芸)ジャンルの公有技術に属するものか見えないところがあるけれど、個々の作品それぞれに読み応えはあった。ところどころ安っぽさ薄っぺらさもあるけれど、そのおかげで薄っぺらくて安っぽいぼくにとっかかりを与えてくれている印象。狼男の話とか。でも中で、いちばん薄っぺらさを感じたのは「雪の女王と旅して」で、こんなさかしらしい小説に賞を与える選考者にちょっとうんざりする。頻出する義足や靴になんの意味があるのかとかいろいろ気になるところがあるけれど、SFじゃないじゃん。なんでこんなものがネビュラ賞を取ってるんだろう。今回の3冊のなかではたぶんいちばん立派な本だけどいちばん縁遠い本でもある。2冊目は読まないよ。個人的好感度では「飛行訓練」「靴と結婚」がよかった。


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