SFセミナー2004レポート

大野万紀


会場の星陵会館 お隣は北海道東京事務所

 5月1日、昼前に東京へ到着。今年のSFセミナーはいつもと会場が違うので、迷ってはいけないと、昼食抜きで地下鉄を探す。まあさほど迷うこともなく半蔵門線の永田町駅で降りる。さすがにこのあたりは地下鉄の出入り口も道路の辻にも警官が立っていて警戒している。会場の星陵会館ホールは坂を降りてすぐ見つかったが、そのすぐ隣が、イラク人質事件で家族が集まっていた北海道東京事務所だったのはびっくり。今は誰もいないが、ほんの何週間か前はTV局やらいっぱいいたのだなあ。
 会場に入ると、青井美香さんがいた。この辺で食事のできるところはなさそうだね、という話をし、ローソンでおにぎりをたくさん買って来る。会場に戻っておにぎりを食べながら、青井さんと雑談。昔の早川の木造社屋のこととか。そうこうしていると中村融さんがやってきて、今年いっぱい翻訳が出ているが、それはずっと前にやった仕事がたまたま重なっただけなんですとのこと。青井さんと中村さんはTHATTAのプロレス話で盛り上がっていました。

ハヤカワ文庫FT25周年 風間賢二・石堂藍 司会:三村美衣

 午後の部から本会に入る(午前中は山田正紀インタビューだった)。午後一番は「ハヤカワ文庫FT25周年」。FT文庫がもう25周年なのか。そういえばSFセミナーも(東京に来てから)25周年だし、現在の京大SF研も25周年だ。出演は風間賢二さん、石堂藍さん、司会が三村美衣さん。風間さんは早川に入るとちょうどSFブームでSFノベルズを担当。新しい企画を出せというので、FT文庫を立ち上げた。主に女性をターゲットとし、当時の国書刊行会の幻想文学大系や月間ペンの妖精文庫などに関わっていた荒俣宏さんをブレーンに、どちらかというと60年代以後のジャンルファンタジー(デル・レイがバランタインブックスでやっていた路線)を目指した。「ファンタジーという言葉がジャンルとして一般化したのはFT文庫のおかげ?」という質問に対して、「それはハリーポッター以後では?」。少女漫画家をカバーに起用して売れるようになった、とか鏡明の「最後のユニコーン」を出すのにすごく苦労した(鏡さんが超忙しく、翻訳が1日2行しか進まなかったり)といった話(なお、ここで鏡さんの翻訳はこれ一冊という発言があったが、これは風間さんの勘違い)。石堂さん(2時間で本一冊読んでしまうそうだ)による雑誌「幻想文学」のお話。日本の純文学特集やラブクラフトは売れたけれどアーサー・マッケンはだめだったとか。80年代はFT文庫の黄金期で、その背景にはファミコンのRPGやゲームブック、「はてしない物語」の流行などがあった。タニス・リーが当たった。お気に入りは「霧の都」や「ボアズヤキンのライオン」などマニア受けのもの。風間さんの一番好きなのは「魔性の犬」だそうで、石堂さんとあれはFTじゃない論争が起きていた。作者のクエンティン・クリスプはスティングの『イングリッシュマン・イン・ザ・ニューヨーク』のビデオクリップに出演しているらしい。こういう話題にも詳しいのが風間さんらしいところ。そして有名な売れていないころの荒俣さん伝説の真相。エディングスあたりからトールキン・クローンのような長大なシリーズものが出始め、今のFTはジョーダンとグッドカインドばかり、ああいうのは一冊読めばいいんですという風間さんとしてはご不満なようすだったが、そこで現在のFT文庫編集者の相原さんが登場。プラチナ・ファンタジーの宣伝をしていったのでした。

SFファンとマンガファン 米澤嘉博・青柳誠 司会:立花眞奈美

 次は「SFファンとマンガファン」。コミケット代表の米澤さんとぼくらには石森章太郎ファンクラブ代表として懐かしい青柳さん。司会は年齢をばらしてしまった立花真奈美さん。SF大会を模して青柳さんがマンガ大会を開催。第4回、5回あたりがピークで、そのころマンガ大会(SF大会のように講演が中心)に対してディーラーズルームを拡大したようなコミケットが始まった。コミケットは漫画家とファンを分けるのではなく、フラットなコミュニケーションの場を重視し、SF大会でいえば合宿のノリを目指した。だから今でも徹夜組に厳しくいえない心情があるとのこと。米澤さんは九州出身でSFではテンタクルズ、マンガではあずに所属し、東京では迷宮で活躍していた。当時地方ではオフセットは千部単位でしか刷ってくれず、売り場の問題は重要だった。これに対して、青柳さんから東京では最低2、3百部から印刷してくれたとの話あり。コミケットはアマチュアのみ、年3回のフリースペースとして始めた。マンガ大会ではオークションが話題になり、ケーキ・ケーキ・ケーキが5万円の値がついて騒ぎになった、その反動として逆オークションもやった(だんだん安くなる)。当時は上映会や原画展もやっていて、80年ごろまではまだやっていたとのこと。そのころはサークル参加も当日参加もOKで、軒下サークルとか、立ち売りサークルなんてのもあったそうだ。75年の宇宙戦艦ヤマトでアニメファンが誕生。SFファンとマンガファンの対比よりもSFファン+マンガファンとアニメファンの対比の方が大きかった。ヤマトを見るか、ハイジを見るか、猿の軍団を見るかでどのファンかがわかったそうな。SF大会でもトーコンあたりで小説を読んだこともない参加者が入ってきたが、マンガ大会でもヤマトの制服をコスプレした集団が現れた。評論などはアニメージュなどの専門誌へ吸収され、パロディしか残らなかった。しかし、そこから今の同人誌の世界が発展していった。キャラにキャーキャーいっているだけではなく、そのキャラを中心に本を作り始めるところから、新しいひとつの世界が広がっていった。といった話が司会も交えて繰り広げられ、会場の若い人にはついていけないところもあったかも。

雑誌文化としてのサイエンス・フィクション 水鏡子・山岸真・牧眞司

 3つ目が「雑誌文化としてのサイエンス・フィクション」。水鏡子、牧真司さん、山岸真さんの三人で、牧真司さんが訳して近々東京創元社から出ることになったマイク・アシュリーの「SF雑誌の歴史−パルプマガジンの饗宴」を元に話をするという企画だった。まず、会場に「ガーンズバック、キャンベルジュニア、そして福島正実を知っていますか」と質問。さすがに多くの人の手が上がる。無線雑誌の編集者だったガーンズバックは、そのノウハウを元にSFファンを組織しようとした。お便り欄からサークルを作り、読者間のネットワークを作り上げた。ファンダムの誕生である。ガーンズバックのSFは、それ以前のウエルズ、メリット、バローズたちの作品との断絶がある。ジャンルSFの誕生であると同時にそれ以前のSF的なものをいったんリセットしているのだ。無線や科学雑誌の読者の中で小説にも興味のある人を対象にしたものである。水鏡子は、ガーンズバックはウエルズの「タイムマシン」や「月世界最初の人間」のような、科学的側面より哲学的側面を重視した小説とは違った方向性を目指したのでは、という。ガーンズバックのアメージング誌にはある種のしろうとっぽさがある。それこそが、ガーンズバック遺伝子というべきものではないか、と牧真司さん。例えば鏡明さんはダン・シモンズがいかにもプロ作家であり、SF作家らしくないという。イーガンやチャンにはガーンズバック遺伝子があるのだと。ぼくはシモンズにガーンズバック遺伝子がないとは思えないが、面白い意見だ。やがて本流のパルプ系出版社が進出してくる。ウィアード・テールズ誌などは作家間のつながりが強かった。ラブクラフト一派、ムーアとカットナーといったように。ここで水鏡子が、SFファンとウィアード・テールズ系のファンは互いに嫌っていたと発言し、当時のSFファンはラブクラフトなどオカルト系をバカにしていたはずだからといったようなことを主張した。だがこれは誤りだと思われる。ラブクラフトはSF作家として認められていたし、ファンの間での人気も高かった。当時のファンダムは一体化していたはずだ。ガーンズバックの雑誌は原稿料が安く、支払いは遅れた。作家たちは他の雑誌に移っていった。原稿依頼されて書くより、持込の方が主流で、新人賞を毎回やっているようなものだった。で、突然20年以上時代が下り、70年代以後SF雑誌の力が落ちているという話を山岸真さん。アシモフズで3万部くらい。今、毎月きちんと出ている商業SF雑誌は(中国のことはわからないが)世界で日本のSFマガジンただひとつだそうだ。

合宿企画

オープニング 山田正紀さん 本とひみつ
これがクロムヘトロジャンの「へろ」だ SFファン奇想天外 文学賞メッタ斬り!
凹村戦争を問う SF雑誌を語る 朝のふたき旅館前

 合宿はいつもの本郷ふたき旅館へ。いつもどおりのオープニングのあと、合宿企画。ぼくは「ほんとひみつ」、「SFファン奇想天外」、「文学賞メッタ斬り」、「SF雑誌を語る」、「アニメファン企画」などを覗く。
 「ほんとひみつ」では奇想天外の付録(パズルなど)が懐かしかった。シャーリー・ジャクスンの「くじ」に英語のサインがついていて、調べてみるとなんとイーグルスのメンバーのサインだったとか。知佳舎の彩古さんも登場。
 「SFファン奇想天外」では昔の珍しいファンジンが出てくる。クロムヘトロジャンの「ヘロ」とか。それを作った知佳舎の人もいて、コミケの米澤さんと箱を手作りしたとか、いろいろと当時の面白い話が出てくる。宇宙鹿とか有名なパロディ誌にまじって、ヒュールネも出てくるし、何よりTHATTA文庫が出てきて、みんな欲しいといっていたのにはびっくり。桐山さんもいっていたけど、昔のファンジンなんて、欲しいという人にまとめて寄贈するのがいいんだろうなあ。
 「文学賞メッタ斬り」は海外のSFやファンタジー賞の話。ネビュラ賞の複雑な選考システムとか。カーネギー賞を取ったプラチェットのディスクワールドものが最近児童書として翻訳されているという話も聞いた。
 「SF雑誌を語る」は途中から入ったのだが、高橋良平さんや水鏡子、牧真司さんらがSFマガジンの話をしていた。SFマガジンはいい作品を載せているが、読者欄が寂しいという話。水鏡子は何度も投稿しているのだ。楽しく盛り上がれる投稿が増えればもっと面白くなるだろうと。
 もしSFマガジンがなくなってしまったらどうなるか、という話になって、寂しいが困りはしない、という意見が多かった。でも、SF雑誌の役割というものを考えた時、やはり大きな変化が現れるだろうと思う。SF雑誌の役割とは何か。歴史的に考えた時、それはまずジャンル形成の核であり、読者と作家を含めたファンダムを作り上げ、個性的な短編や評論を掲載することで様々なムーブメントの中心となることだった。それはメディアであり、SFというコミュニティと情報とジャンルの求心性を保証するセンターでもある。WEBの発展で、コミュニティや情報の機能は薄れたように思えるが、ジャンルの求心性を保証しオーソライズする機能は編集行為を必要とするSF雑誌にしかないだろう。そういうと、ずいぶん保守的に聞こえるかも知れないが、ジャンルには外へ向かう拡散するベクトルと、ジャンルの存在を確認しようとする内向きのベクトルが存在する。それはどちらも必要なものだ。ジャンルの求心性とは何も古くから変わらない昔ながらのSFを掲載することではなく、SFの遺伝子を保存するということだ。その遺伝子の発現形は様々であり、ニューウエーブもサイバーパンクもそこから出てきたものだ。スプロールフィクションをSFマガジンで読むというのもそんな感じだろう。
 寝る前に覗いた「アニメファン企画」は米澤さんと出渕さんの朝まで生語りだったが、米澤さんの奥さんが酔っ払って大声で話に口をはさみ、そのたびに米澤さんが抑えるということを繰り返していて面白かった。スターウォーズの映画を最初に見たとき、そのスピード感や身体感覚にすなおに感動したという米澤さんに対して、アニメの表現の方がずっと新しく、SWには目新しいことはなかったという出渕さんの話があり、ぼくは同世代のせいか、米澤さんに共感できたといったことを話す。そんなこんなで寝たのは4時すぎだった。
 今年のセミナーは例年にもまして、ずいぶん充実していたといえるだろう。スタッフのみなさん、いつもながらごくろうさまでした。


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