続・サンタロガ・バリア  (第16回)
津田文夫

  レディオヘッドの『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』を聴きながら、後退戦かなあと思ってしまう。聴いた回数は、はや『キッドA』を上回っているけれども。
 ゼップのDVDは1970年のロイアル・アルバート・ホールしか見ていないが、思い起こせばゼップはアルバム毎に変化しようとしたバンドだったんだな。70年代初頭はそれでもまだキャンバスは白かった。始まったばかりの伝説の姿は、胡散臭くもやはり巨大に見える。20代半ばの山師たちは見事な詐術を繰り出したのだ。いまや誰もが知っている手品なのに、いまだ騙されることが不快でない。

 牧野修『呪禁局特別捜査官 ルーキー』。破廉恥とは読者をして赤面させることなり。「だじょ」はやめてくれ。「だじょ」は。美人教官の霊が乗り移った口の悪い美少女人形に正義の味方の科学戦隊パロディ、非道であろう。

 『北野勇作どうぶつ図鑑 01〜06』その間に『ハグルマ』。『ハグルマ』はホラー不感症を自認しているので、神経症スタイルはダメ。最初と最後はわりと好き。手先の不器用さには自信があるから『どうぶつ図鑑 01〜06』の折り紙は折らないが、それでも総額2,520円の価値はあるだろう。短編集としてというよりは造本のおもしろさにより惹かれるけれども。90年代中期の作品が多くて、作品の印象も北野印がはっきりしているような気がする。しかし、『北野勇作どうぶつ図鑑 その6いもり』に収められた茫洋とした印象の断片小説も悪くない。「カメリ」の話も好き。

 パトリック・オリアリー『不在の鳥は霧の彼方へ飛ぶ』。「本の雑誌」で山岸真が基本設定が物語の仕掛けにかかわっているので多くは説明しないという意味のことを書いていたのに、新聞書評も「SFマガジン」も設定を明しているので、約180ページ読んでようやく説明されるエイリアン話は何の効果もないのだった。死んでることに気が付かないのはブルース・ウィリスだけじゃない。
 パトリック・オリアリーの作風は、邦訳された2作から考えると、書こうとするとSFみたいになっってしまうが、書きたいことはSFである必要がない、という感じがする。面白いかと聞かれると、ビミョーとしか答えられない。『時間旅行者は緑の海に漂う』のときは新鮮さもあって結構ほめたような気がするけれど。

 三島浩司『ルナ』は読み終えてすぐ、作品世界の臭いがまったく感じられなかったことにおどろいた。特に「有事後」の無体は汗やガソリンや血糊や精液、それに雑炊をはじめとした食い物の臭いで充満していたはずなのに、もっといえば「有事前」の海の潮の香りさえ何も臭ってこなかった。この作家にはそういう細部に具体的な実感というモノがないのかも知れない。たとえば筒井康隆や平井和正や山田正紀や夢枕獏が全く同じ話を書くとしたら、その作品世界は濃密な臭いに覆われていただろう。だからそのことはこの作品の特徴であってそのような世界観/五感のもとで成り立った作品世界ということだ。丁寧だけれどときどきわかりにくい描写をする文章がフィルターをかけているのかもしれない。ルナと仁のエピローグを読んで、行儀の良さに感心してしまったのは確か。

 仕事の役に立つかなと思い、司馬遼太郎『坂の上の雲』を読む。日露戦争/日本海海戦100周年も近いし。司馬遼太郎の小説は昔、講談社文庫の『アームストロング砲』という短編集を途中で放り出して以来、読んだことがない。
 新聞小説ということもあって、繰り返しの多い冗長さが目立つが、射程の長い広い視野が読み手を前へ前へと誘う。作者があれこれと顔を出すのが鬱陶しいときもあるが、それが作風なのだろう。この作品の性格は作者自らが6巻分の「あとがき」+エッセイにおいて、言い訳しつつも、明らかにしているので特にいうことはない。この作品に小説的感興/ありがたさを求めるとするなら、それは食い扶持稼ぎに松山から大阪へでてきた少年秋山好古と、ロシアの大軍に向かって騎兵団を率いて満州の大地を動き回った軍人秋山好古との間に横たわる、遙かな時間と空間の顕現ということになる。そしてそれは、秋山兄弟のみにあるわけではなく、書きようによっては、東郷からでも一軍楽隊員河合太郎からでも、またバルチック艦隊に乗り合わせたロシアの造艦技術者や商船上がりの水兵からでも取り出すことが出来ることに思いが及ぶとき、この作品の持つ交響性が実感されてそれなりの感動が実現する訳だ。解説はつまらない。 


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