続・サンタロガ・バリア  (第14回)
津田文夫

 2ヵ月前にマーラーの3番をはじめて生で聴いて、結構うれしかったのだが、もはや忘却の彼方。いまだに覚えているのは、チケット売り切れなのに、主催の新聞社が招待券を配りまくっているため、いいところの空席がチラホラ。立ち見もでたのにねえ。
 10枚でたケンペのCDのうち、これまで6枚をゲット。一番は「王宮の花火の音楽」。こんな曲で涙が出るとは、さすがケンペ。というかバンベルク交響楽団との相性が良すぎなんだろうな。解説書によると当時(1960年頃)のバンベルクには共産化した東欧から逃げ出したプレイヤーが多数いたそうである。さもありなん。ケンペはベルリン・フィルやフィルハーモニアとはうまくいっているのに(ベルリンとはシューマンの「春」やベートーヴェンの序曲集、フィルハーモニアとではハイドンの「ロンドン」が良い)、ウィーン・フィルとはイマイチうまくいってない。レコード会社に押しつけられたとおぼしきしょーもないレパートリーのせいもあると思うけれど、ケンペのバランス感覚がウィーン・フィルに通じていないのではないかと思わせる。ケンペは弱音方向のダイナミイック・レンジを犠牲にしてまでも木管の響きを際だたせる傾向にある。ベートーヴェンの序曲集で聴くことができる素晴らしい力感はベルリンの高機能とあいまって生み出されるものだが、ウィーン・フィル独特の柔らかい響きはケンペのコントロールをうち消しているように感じられる。ケンペ/ウィーン・フィルで聴いてもアンソロジー形式の序曲集というのは結構頭が混乱することがわかった。
 ケンペは割とマイナーなオケと良い仕事をしているせいで、一般的な人気がでなかったともいえるが、そうはいってもロンドン5大オーケストラの一といわれたロイヤル・フィルは当時すでにダメになっていたようで、ケンペをもってしても大したオーケストラとは思えない。
 4月来日のクリムゾンのコンサートに行けず、非常に悲しい。

 本は相変わらず読めていない。読み残し解消ということでムアコック『グロリアーナ』から。マーヴィン・ピークとは似ても似つかない騒々しさで、いかにもムアコックらしい騒ぎの連続。悪漢の活躍が眼目の話だが、輝く裸身の大女グロリアーナの神々しさに思わず回心しちゃう大団円はちょっと困る。作中に表面上は超自然的設定がないからといって、アルビオンのもう一つの世界の物語としてファンタシイ要素が薄いわけではない。元々何でもありの世界なんだから、歴史改変SFとして読んでもわるくない。力作。

 西崎憲『世界の果ての庭』はいくつかの無関係と思える(もしくはジャンルの違う)世界の話が断片的に語られ、最終的に短い終章で閉じられる。どのエピソードも数ページずつしか語られないので、読みやすく、いつのまにか常にいつ各エピソードの続きがでてくるか期待しながら読んでしまう、非常に技巧的な作品。各エピソードの内では、どことも知れぬ世界のプラットフォームで脱出のための列車の到着を待ち続ける男の話が印象に残る。

 新しいところで神林長平の短編集『小指の先の天使』。主流文学っぽいカバーが印象的だ。全体的に静謐な感じを残す作品が多い。SFを謳う必要がないのはそのせいだろう。神林がSF読者以外にどれくらいの広がりの読者層を持っているのか知らないが、予備知識なしで読んだ人の感想が聞きたいと思わせるところが、この作品集の価値かも知れない。

 バリー・ヒューガート『鳥姫伝』はまだ読み終わってないが、どうにも居心地の悪い作品世界だ。訳者は達者なんだろうけれど、なんかぎくしゃくした感覚がまとわりつく。作者の「色眼鏡」と読者の「色眼鏡」が架空の中国で出会って「ラプソディー」を奏でている風だ。話の印象は「絵のないマンガ」で、ホラ話の系統を感じることも出来るが、いったいどこの国のホラ話なのか違和感がついてまわる。これっておもしろいのだろうか。


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