みだれめも 第155回
水鏡子
前回のめもを書いた直後に『暁の天使たち4 二人の眠り姫』が出た。面白い。二回ほど読み返した。大合流の次巻が楽しみである。入手し損なっていた『レディ・ガンナーと宝石泥棒』も読んだ。やっぱり物足りない。なんで『二人の眠り姫』が面白いのか、なんで『レディ・ガンナー』が物足らないのか、なんて考えているうちに、小野不由美、上遠野浩平、茅田砂胡というのは、ぼくがSFに期待する、それぞれ別ベクトルの三つの魅力を体現していないだろうかなどと思いついた。
SFは「制度論的ファンタジイ」であるというのが持論である。「十二国記」の世界は、制度の法理のなかで役割を担わされた主人公たちの情理をめぐる物語である。それと同時に、情理にもとづき行動していく主人公たちの道行きを通じて法理としての世界・社会の制度(システム)が立ち上がる、制度そのものが一方の主役を張る構造の小説である。ここでは、主人公は制度の法理と対峙し、情理をもって立ち向かう。世界とわたしは対立する。わたしとはなにかという問題は、世界を相手にする自分についての倫理であり論理である。そこでみつめられるわたしはあくまで「生き方としてのわたし」である。世界とはなにかという設問とわたしとはなにかという設問はけっして交わるころはない。ポール・アンダースンとかル・グィンとかクラークとか。ちがうかもしれない。
SFのもっとも刺激的な方向は宇宙の根本原理を説き明かす「存在論ファンタジイ」かもしれない。科学的世界観とは相容れない。科学的世界観もひとつの解であるけれど、それを正義とした瞬間から、世界は「制度論的ファンタジイ」へと移行する。根本原理に疑義を呈する小説は、科学を根本原理に受け入れた瞬間から「存在論ファンタジイ」と切り離されてしまうのだ。世界とは、意思をもつ時間であり、世界とはなにかという問いかけが、存在において世界とイコールであるわたしとはなにかという問いかけに変容してしまったりする。あるいは「制度論的ファンタジイ」のなかでは確固たる基盤をもっていたはずの「わたし」というのがあやふやになる。「ブギーポップ」はそういう小説だ。若干徹底度はよわいところはあるけれど。わたしと世界は対立しない。わたしのなかに世界はあり、わたしを支えていたはずの現的基盤は突き崩され、きわめてあやふやなものに変えられる。みつめられるわたしは、イデアとしてのわたしとなる。ディックとか筒井、神林、北野勇作なんやかや。ちがうか。ちがうかもしれない。
うーむ。どう考えても根本的に相対立する骨法の小説であるはずなのに、小松左京やらイーガンやらティプトリーやらラファテイやら、どっちにいれてもおかしくないのがいっぱいいる。まあいいや。
そして三つ目がSFは「わがままなファンタジイ」というやつ。主人公/作者が科学や哲学などをパワードスーツのように着こなして、世界を組み敷く強大な力を持ち、小説世界をわがまま勝手傍若無人に蹂躙する小説。世界を制覇する物語。それこそSFの始原的欲求ではないのかというのが、昔書いた本のなかでのぼくの唐突な結論だったりするのだけれど、茅田砂胡というのはまさしくその典型と思えるのだ。
ただしそこには大きな条件が付随する。
えい、昔の文章を引用する。
「自分が巨大な存在と化し<世界>と四つ相撲が組めること。(中略)そのとき作品がすぐれたものになるかどうかは、そうやって呈示された世界が、ぼくらの棲まう日常とくらべて納得できるリアリティをもてるかどうか、呈示された世界と組み合う主人公の存在に納得できるリアリティが与えられたかどうか、言ってみるならたったそれだけのことでしかなかった」
ということで、茅田砂胡である。
「デルフィニア」にしろ「スカーレット・ウィザード」にしろ、物語の面白さ、世界の確固たる存在感、安定感は水準以上であるのだけれど、じつはそうした背景世界は原則まるっきり目新しさに欠けている。SFやファンタジイのジャンル的蓄積の中で、だれもがあたりまえに受けとめることができるようになった紋切り型の世界に依拠しつつ、重量感のある世界構築を成し遂げ、その背景世界を背負ったキャラたちを生き生きと躍動させている。ただし背景世界にまるっきりオリジナリティがないわけではない。皮肉なことに作者のこだわりが見てとれる、紋切り型に頼れない、オリジナリティのパーツ部分が前面に出るたびに話がふわふわたよりなくなる。具体的には「闇の太陽と月の物語」であり、惑星ボンジュイであり、ファロット一族といったパーツである。「暁の天使たち」はここまで「闇と太陽と月」のパーツが強かったのだが、キングの登場で話があたりまえの宇宙に戻ってきた。背景世界をきちんと背負ったキングにからむなかで、リイやシェラも「闇と太陽と月」キャラのうわついた印象から「デルフィニア」キャラの時代のしっかりした印象にもどってきた雰囲気で、全体が締まり、「スカーレット・ウィザード」のテンションと安定感とスピード感がでてきた感じなのである。『レディ・ガンナーと宝石泥棒』がものたりないのは以上の説明の逆になる。わりとおもしろい背景世界にキャラを支えきる力がたりない。力がたりないから、キャラが傍若無人に振る舞いきれない。そういうことでないかと思う。
いきつけの古本屋の百円コーナーで『甲賀忍法帖』の初刊行版(三刷)を見つけた。しかも美本。ぼくが風太郎にはまったのは、角川文庫版が出はじめたころで、その当時見かけた版というのは、角川文庫版以外では、講談社ロマンブックス、忍法小説全集の二つの新書判と『山田風太郎全集』で、この初刊行版を見たのはじつは初めて。奥付をみると「やまだかぜたろう」とルビが振ってあった。一緒に『忍法忠臣蔵』と『忍者月影抄』、『いだてん百里』、角田喜久雄の『悪霊の城』の初版本もあって、まとめて買う。計420円。
そういえば、ここんところ古本戦果の報告をあまりしていない。あいかわらず毎週行っているけど、増える本はコミックとヤングアダルトばっかりだ。それでもたまには宗教本コーナーに混ざりこんでたバルザックの『セラフィータ』とか、上巻だけだけど『船乗りサムボディの冒険』なんてところを入手したりもしている。本格的に持っている本がわからなくなってきて、別冊宝島とかダブりがたくさん出てきて困ったものであるのだけれど、買い方がかなりいいかげんになっていることも事実だ。この前、持っていないつもりで買ったクーンツが、家に帰って見てみると、訳者白石朗様だったのには、正直相当落ち込んだ。関係者、笑いなさい。