みだれめも 第153回
水鏡子
○『鉤爪プレイバック』エリック・ガルシア
恐竜ハードボイルド第二弾。おバカな基本設定で、まじめに世界構築するための手練手管を尽くした前作に比べ、オモチャ箱をひっくり返したような小ネタの数が劣るのは2作目である以上しかたがないところ。あいかわらず達者で楽しいストーリイ・テリング。それに軽いタッチで見過ごされやすいけど、このシリーズ、意外とSFとして本格的だ。第1作の事件にしても、実は異種族混肴社会のなかで、種としての未来をめぐるマクロで熱い思いが語られて、その感動的なラストは『鋼鉄都市』の正統な後継者といってもいい。むしろこのおちゃらけた世界の中で展開される、安直に人種問題に還元されない「種としてのあり方」をめぐる論議は相当硬派で、しかも頭でっかちにもならず日常性のレベルまで獲得しつつ、シリーズの通低音を成している。たとえば本書の新興宗教の教義にしても、この恐竜社会の成り立ちからして当然存在すべきものだろう。問題があるとすれば、この教義が新興宗教のオリジナル教義であること。この恐竜社会の成り立ちからすれば、これは当然既存宗教の強力な原理、言説であるべきで、そのあたりの辻褄が少し弱かったかなというのが、本書のかすかな疵といえるかもしれない。
それにしても、この作者の知性の多面展開癖は魅力だ。本書にしても前作にしても、全体を締めているのは、発想の連続性である。前作の場合、事件のトリックは、恐竜社会の基本設定をそのままひっくり返したものだったけど、本書の場合も、「祖竜教会」の思想的対立軸に「ドラッグクィーン」を配置する思考回路は絶妙である。というか、この構図こそ、本書のじつは基本設定の予定だったのでないかというのがぼくの推測だったりする。残念ながらこの対立軸、とりわけ「ドラッグクィーン」を、前作のようには鮮烈に使いこなせなかったのがガルシアの誤算だったと思っている。クライマックスの騎兵隊のご都合主義的唐突さは、そこをきちんと詰められなかったせいではないか。
そんなこんなとケチをつけているけれど、作者の構想のなかではもっとすごいものになっていたはずではなかったかという程度のこと。作品自体はそんな誤差を軽やかに修正してきちんと仕上げた職人芸の逸品。読んで損なし。
○『ジャングルの国のアリス』メアリー・H・ブラッドリー
ほわほわしながら楽しく読んだ。明らかにルイス・キャロルを意識した語りの視線は、ノンフィクションらしくらぬ夢の国めいた感触を作品全体に漂わすことに成功している。でもなあ、読んだからどうって本ではない。なんの役にも(ほとんど)立たないけれど、貴重必携のティプトリー関連アイテムといったところ。子供相手に余裕をもって着飾っていて、著者(母親)の人格が読み取れない。
ひとつだけ気になったこと。6歳という幼い時の自分の体験を、自分を主人公にしてこんなかたちで外在化されるというのは、どんなものなのだろうか。こんな本が座右にあれば、幼い自分の記憶というのは、母親のファインダー越しのものに固められてしまうような気がする。活字にはそれだけの力がある。続編『象の国のアリス』(出版時、アリス14歳)がますます読みたくなった。
○『SFが読みたい 2003年版』
あらためて日本SFの充実ぶりを実感した。『永久帰還装置』『今池電波聖ゴミマリア』『レスクレティオ』『キぐるみ』『微睡みのセフィロト』『奇偶』なんてところが、ベスト20にも入れないのだ。おかげで評価基準が例年になく高止まりして、ぼくの感想は戦闘気分の批判的言い回しを重ねている。
これは言っておいた方がいいと思うのだけど、誉めている作品の評価がけなし言葉の入った本より高いというものではない。これはたぶんぼくに限らずかなりの感想文業者に通じるもののはずである。
力量を小さく見積もっている作家の本を読むときは、ぼくらの目線はある意味見下ろすかたちになって、そのがんばりを暖かく見守るやさしい気分で本に接することになる。けれども畏敬の念を持ち接する作家に対しては、そんなゆとりは雲散霧消し、その作家に期待する(可能性、将来性も含めての)最大値をものさしに本に接することになる。そうすると自然けなし言葉が並ぶことになる。『塵よりよみがえり』に対する怒りも、作者がブラッドベリだからである。誉めているアスプリンよりけなしているイーガンの本のほうがだめなわけでないのはあたりまえの話である。
さて、今回かなり過激な発言となったぼくのベストSF海外篇について、補足を少々。
まず、3位にあげた『90年代SF傑作選』。若干の物足りなさもあって、山岸真への嫌がらせも兼ねて『90年代SF傑作選 下』で投票した。編集部で誤記と思われ修正されたようである。
今回のコメント、舌足らずだったかなと思うのだけど、批判対象は「アメリカSF」である。オーストラリアの作家は除いている。
腹立ちのもともとの理由は、『公家アトレイデ』である。というか、この本がおもしろかった自分自身である。この本の解説を書かせてもらったわけだけど、ゲラをぼくはかなり楽しんで読んだのだ。ケヴィン・アンダースンの他の作品もわりときらいじゃなかった。本書もよく書けているといい気分で読み終えた。あとから思うと見下ろすかたちの暖かく見守るようなやさしい気分だったかもしれないが。そのあと『砂の惑星』を読んだ。密度の濃さに愕然とした。それ以上に引き比べたときの『公家アトレイデ』の密度の薄さに、つまりはケヴィン・アンダースンの薄さに気がつかなかった自分に愕然としたのだ。知らず知らずそんな薄っぺらくなったアメリカSFに慣らされてしまっていたのではないかと自分の基準に不信感が出てきたのだ。そこに出現した『ディヴィー』と『地球礁』だった。ラファティはラファティだからまあいいとして、パングボーンの物語としてのこく、そしてわかわかしさ、したたかさ、これが正直ショックだった。
そして今年の日本SFの昂揚と比較したときに感じる落差、それが最近読んだ本としてスターリングを唯一の例外として、「ブッシュのアメリカ」を許容できてしまう印象、そんなものが重なって、いったい今のアメリカSFに何を期待して読むことができるのか、さっぱりわからなくなったのだ。日本SFのほうがはるかにSFしている。90年代の『ロード・オブ・ザ・リング』は60年代の『指輪物語』にあった社会性はもちえないのだろうか。と、いまだに映画も見ない、小説も読まずに言ってみたりして。
「作家別日本SF最新ブックガイド150」は読み応えあり。