みだれめも 第150回

水鏡子


 こんなはずはないと首をかしげながら『十月はたそがれの国』と『太陽の黄金の林檎』を引っぱりだして読み返した。まだせいぜい二桁単位のSF読書の蓄積しかない、それなりに多感な時代の甘美な記憶ほどには傑作ではなかったけれど、それでも「四月の魔女」も「アンクル・エナー」もいかにもブラッドベリらしい心温まる佳品だった。
 いくつもの短編集に点在して現れる<一族>たち。その控えめなありかたは、確信に満ちた背景世界の存在を示唆しながら、あくまでドメスチックに一こまを切りとり結実させた短編に終始する。そんな作者のストイシズムや美意識に共感しつつ、それでもやはりこの物語たちが一堂に会する場所がいつかあったらいいのにと何度も夢想したものだった。
 ブラッドベリ『塵よりよみがえり』を55年かけて完成させたと言っている。それをいうならぼくだって、30年間待ち焦がれていた作品だ。30年間待ち続けて、結果手にしたものは、老人の文学的才能の枯渇を印象づけるどうしようもない愚作だった。
 「アンクル・エナー」を例に取ろう。この翼ある好男子は、ある日突然高圧線とぶつかって、飛ぶことが出来なくなり、ちょうど居合わせ手当てをした娘と恋に落ち、結婚する。やがて平凡な人生の檻の中に閉じ込められ、大空を飛ぶことも出来ず、悶々とした生活を送るようになった男が、子供たちとのふれあいの中で、人生のささやかな復権を果たす。そんな小さな物語である。そしてまたこの好男子は、他の作品のなかにも姿をみせ、うちひしがれた少年の心を開く手助けをする。そんな小さな物語がゆるやかにつながりながら、登場人物を重なり合わせて、世界に広がりと濃淡を与えていたのが「一族」の物語だった。
 ところが、本書の「アイナーおじさん」はどうだろう。世界が神話を信じることを拒み、存在を否定されることで、<一族>は危機を迎える。屋敷の中に閉じこもっていてはいけない、自らを知らしめるため<一族>は広がらなければならないというティモシーの提案に沿い、その1番手として旅立ったのがアイナーおじさん。娘は占星術師のはしくれで、かれの到着もセシーから伝えられていたという。
 まさに改悪の見本といっていい。完成された美しい小世界を愚にもつかない<大きな物語>の部品へ作り変えてどうするのか。しかも、その、<大きな物語>がまた通り一遍で、おまけに中途半端なバランスの悪いカスときている。もともと昔の作品からして、大掛りな社会的なテーマを扱ったりすると、陳腐さが目につく限界を感じさせる作家だったが、本書の場合、陳腐であるとかないとかいったレベルの問題ではない。構想力そのものの欠如であり、改善と改悪の区分けがつかない文学的嗅覚の喪失だ。この連作集が『火星年代記』と同じ時代に完成していたら、著者の代表作になっていたのは絶対間違いない。まだ手に取っていないかた、そのまま本書を封印し、そんな見果てぬ夢に思いを託していただきたい。
 いやあ、ひさびさの罵詈讒謗。中村融先生、ごめんなさい。


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