続・サンタロガ・バリア  (第10回)
津田文夫

 本が読めないなあと思いつつ、『航路』を読む。せっかく贈ってもらったんだし。凄いリキの入った販促パンフだったけど、梗概読まずにとりかかった。
 読み始めて、あー、これはコニー・ウィリスの話だったんだと思い直す。いや、あの絶賛の声にこちらが期待するような書き方をウィリスがするわけがないよな。まあ、ほとんどが病院内で動く話だし、やっぱりウェルメイドなコメディを見ている様な気分。とにかくリーダビリティが高い。こんなにスラスラ読めるのは、訳文の力もさることながら、読み手の想像力/イメージ喚起力に負担をかけない範囲で世界を作り上げているからだろう。その意味でウィリスがプロフェッショナルな作家として大変な力量を有していることに間違いはない。ただその世界が好きかどうかは、読み手の趣味に関わる。
 第2部の最後以外は、ほとんど何の事件も起こっていない。その事件だって物語の構成上要請されたありふれた事件にすぎない。NDE(臨死体験)の実験装置という慎ましいガジェットを除けば、SFとしても何も事件はない。なのにSFとして読み終えることになるのは、SFを読んで育った作者と訳者の功徳だろう。SFを思わせるのは第3部のヒロインの世界があるからだろうし、それはブラックホールに落ちていく人間の意識とそれを外から観察した人間の時間意識の違いを思わせるからだろう。ヒロインが最後まで観察者/考察者として存在するところもSFのもつ味わいを醸している。
 作品の結末/終末が大野万紀さんがいうようにホジスンの作品のイメージを反映しているかどうかについては、全くいい加減な印象でBGM判断をすれば、ホジスンならバックに「スターレス」が流れてきそうだけれど、この終末には全然似合わない。「孤独のメッセージ」さえ似合わなくて、この世界なら「ポイント・オブ・ノー・リターン」や「モア・ザン・フィーリング」などのアメリカン・プログレ・テイスト・ポップがちょうどいい。って曲が古すぎるよ。あの終末がホジスンにたどり着くかどうかは、赤く染まっていく世界に何を感じたかにもよるんだろうな。
 というわけで、十分愉しませてもらいました、大森望様。とはいっても作品の評価は水鏡子寄りだ。ただし、退屈を感じたことはないけれども。

 リーダビリティはおもしろさの保証にはなっても、傑作の確信を抱く理由にはかならずしもならないんだね。これは先月出た『文庫版 絡新婦の理』を3日で読み終えた時に感じたことでもある。3日目は700ページイッキ読みで翌日仕事にならなかったくらいだから、リーダビリティは最高。ところが読後感は、これまでの京極堂シリーズの作品に比べて変に印象がちぐはぐなのである。それはフラッシュバックで始まる構成やフェミニズムをはじめとした題材のあからさまな同時代感覚(もちろんこれまでのシリーズだって旬の題材を取り上げていたんだろうけど)が、そのリーダビリティにもかかわらず常に読み手に物語の外を感じさせていることが影響しているのだろう。関口の出番がないこともそのひとつかもしれない。ま、個人的な理由もあったけど。呉美由紀という名前、より正確には「呉」という姓である。仕事柄「呉」姓には反応せざるを得ないのである。安芸国の「呉」は平安末期にはじめて文献に地名としての漢字が現れるが、「呉」姓を名乗った地方の小領主は中世に絶えており、現在、「呉」姓は呉にいない。江戸末期、広島藩浅野家に重用され、枝藩の待医として江戸詰となった呉出身の医師がいた。これは呉の山田村から山田姓を名乗り、呉山と号した。そしてその息子は「呉」姓を名乗り、江戸青山に開業した。それがギリシャ神話の呉茂一や元日大総長呉文炳など「呉」一族の祖なのである。ってな話につながって気が散るのは仕様がないにしても、それを抜きにしてもなお、この作品のリーダビリティ/おもしろさと読後の印象とのギャップはいかんともしがたい。

 『クリプトノミコン』とか大塚英志と東浩紀とか、次に覚えていたらそのときに。


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