みだれめも 第145回
水鏡子
この前、SFセミナーが終わったあとで、エロゲーに造詣の深いSF系雑文屋さん某とミステリ系雑文屋さん某とに秋葉原の中古屋を案内してもらった。店構えやなんかをいろいろ覗きながら、自分のことは棚にあげ、これはいかんぜと若者文化の将来に悲しい思いを抱きながら、帰途に着いた。エロゲー屋さんの店内が、昨今の郊外型古本屋と同様に明朗闊達なのはまだいい。晴れ上がった青空のもと、店先の露天にその種の商品が大量に平気な顔で並べられ、表通りにポスターがこれでもかとひるがえるのはやっぱりどこかまちがっていると思うのだ。大阪の日本橋は、もすこし全体的な雰囲気に猥雑さが残っている。(雰囲気の違いの理由は、じつは、表通りの道路の広さのちがいだけだったりする気もする)
もう10年以上も前と記憶しているけれど、男女の高校生の読書調査の結果があって、女子高生のベストには村上春樹や吉本ばななが並んでいるのに、男子高生のベストの方には、『ロードス島』や『宇宙皇子』しか見当たらず、これでは近い将来、小説の読者は女だけになると、慨嘆し合ったことがある。
実際、危惧したとおりの世の中で、若向けエンターテインメント小説の大半は、かなり質の高い女性読者に支えられる状況にいたっているように見える。一方男性読者の売り場は、いつのまにやらエロゲーのノベライゼーションが堂々と並び、さらには<萌え>やら<眼鏡っ子>やらが物語のなかでの重要度を主張するなど、そちらの系統のヴィジョンがいわばコンシューマー仕様で大量に逆流し、グレーゾーンをどんどん拡大曖昧化しながら色餓鬼文化圏一色に移行しつつあるとさえ思える。
小説全体が女性消費層に支配され、男性読者を対象にした若いジャンルが基本的にエロ小説化していくなかで、男の子のものでありながらエロ小説になれない小説がはたして読者を獲得していくことができるのだろうか、というのがじつはぼくのSFについての不安であったりする。フェミニズムの皆様からは糾弾されるかもしれないが、SFのコアのひとつとして、男の子のものでありエロ小説になれない小説という性格を与えることにぼくはいささかも躊躇しない。
野尻抱介『太陽の簒奪者』はまさにそんな男の子小説である。主人公が女性だと指摘する向きもあろうけれども、それだって作者の健全な(うーむ、あの歳でのこれは果たして健全といえるのか?)男の子性の顕れにほかならない。クラークの『火星の砂』や『銀河帝国の崩壊』がジュヴィナイルであるというのと同じ意味でこれは純然たる<男の子>のジュヴィナイルSFである。夾雑物が取っ払われて世界がスカスカになってるところもいかにもジュヴィナイルである。誉めようとするとなんとなく赤面してしまうところもジュヴィナイルであるせいか。ここまで書いてきたように、はたして読者を獲得できるかというのがじつは本書についてのいちばん気になるところだったりしていたので、最終的にいちばん売れるかどうかはとにかく、ハヤカワJコレクション最初の3冊中でも最初に重版がかかったらしいといった噂も聞こえてきて、それは作者に対して以上に、むしろ「この本を待っていた読者がいたんだ」ということに対して、なんともいえないうれしさを感じる。SFもまだ大丈夫かもしれないと。
じつは本書を読むのがこの作者の作品としてははじめてである。野尻抱影を踏まえた名前は覚えやすく、かなり昔から印象に残ってはいたけれど、抱影の本も読んだことがなかったし、京フェスその他で面識ができたせいで、余計手を出しづらくなっていた。1冊読んでしまったので、とりあえず『ふわふわの泉』と『ロケットガール』あたりも読んでみることにする。あちらのほうができがいいといった意見もきこえてくるし。
うーむ、海外SFが読めない。日本SFもベスト5全部をJコレクションに占めさせることだけは避けたいし。(最近、時間をとられているもの:ご多分に漏れずのワールドカップと遅ればせながらの『ガンパレード・マーチ』。攻略本がみつからない)