みだれめも 第143回
水鏡子
SFマガジン5月号の架空アンソロジー特集の原稿は、ひさしぶりにあんまり苦労しないで楽しんで書けた。腹案をいくつも抱えてあっちこっち寄り道しながら、ぼくとしては珍しく締切りの1週間も前に原稿が仕上がった。できあがった代物が他のメンバーと比較してあまりの古色蒼然ぶりと論旨の時代錯誤の硬直ぶりにちょっとめげたとか、収録予定作の読み返しでまた未読の新刊の山が高くなったとか、いくつか問題点も残ったけれど、まあ、はしゃぎ楽しみながら仕事ができた。
そんな話を持ち出したのも、じつは『90年代SF傑作選』を読みながら(まだ、読み終えていない)、空中分解した腹案のひとつ『われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ』というセットが思い出されたからである。
タイトルはもちろん、銀河オリンピックを扱ったティプトリーの短編。軽快で喧騒的でしかも思わず涙する初期ティプトリーの集大成で、明らかに作者がはしゃぎ楽しみながら書いている気配が伝わってくるところ、B級的なところも含めてぼくの読みたいSF短編の理想形のひとつであるといっていい。(そのへんのことはSFマガジン97年12月号ティプトリー特集号で書かせてもらっている)
この短編の世界に収束していくようアンソロジーを作ろうとしたのだけれど、思いついたふたつの方向が水と油でどう組み合わせてもしっくりいかない。かといってどちらか一方に偏ったのでは一本調子になりそうで、結果的に断念した。
まず、本書を読んで古参ファンが連想する作品といえば、なんといってもヴァンス・アーンダールの「広くてすてきな宇宙じゃないか」だろう。うーむ。これを言ってしまうとネタばれか。宇宙を遠く離れた、あるいは今は亡き地球に向けた望郷や哀惜の思いを綴った作品群で、フレドリック・ブラウン「緑の地球」、エリック・フランク・ラッセル「地球の絆」といったものから、ちょっとひねってロバート・シェクリイ「夢を売ります」、犬たちのコメントつきのクリフォード・シマック『都市』最終話「簡単な方法」まで、しみじみ気分にひたることができる中位レベルの佳作がいくつでもある。ハミルトンやアシモフなど探せばいくらでも出てくるはずだ。地球、地球人、地球文明と対象を広げていくとそれなりにバラエティに富んだものに仕あがるが、説明抜きで読んだだけでテーマの統一性を感得してもらえるかどうかかなり不安が残る。
これと噛み合わないもうひとつのテーマは、表題作のクライマックスで展開される「人類賛歌」である。大宇宙に刻みこまれる「人類」の足跡。もちろんまるっきり噛み合わないわけではなくて、たとえばさっきあげたなかでの「簡単な方法」はこちらの文脈からも、表題作にいちばん近い作品という言い方もできる。
アーサー・C・クラーク「太陽系最後の日」、ウォルター・ミラー・ジュニア「大いなる飢え」、レイ・ブラッドベリ「われはロケット」、バリントン・ベイリイ「ドミヌスの惑星」、ポール・アンダースン「地球諜報員」、ロジャー・ゼラズニイ「マラテスタ・コレクション」、アクレフ・モナレフ「銀河・五つの文明の肖像画」(『時の凱歌』プロローグ)などの大向う受けする作品がいくつもたちどころに浮かんでくる。じつはぼくにとってのSFのけっこうコアな部分であったりする。
なぜ、このアンソロジー企画が思い出されたかというと、『90年代傑作選』上巻の、時代のカラーが読み取りづらい印象のなかで、個々の短編に関していえば、やけにこの種の「人類賛歌」、「人類主義テーマ」と呼べるような作品が目についたからだ。具体的にはレズニック「オルドヴァイ峡谷七景」、ブリン「存在の系譜」など。これが時代の方向を表しているわけでないのは、『20世紀SF』だと、むしろ第5巻『1980年代』に「系統発生」「やさしき誘惑」などそのての作品が重なっている。極悪な環境の中で生き延びようとする人類の意志を謳いあげる「系統発生」の評判がいいが、もっとすさまじく生々しい種存続の意志発現シーンを描き出したものとして、小松左京の「静寂の通路」を紹介しておきたい。『青ひげと鬼』だったかな。小説としては書き飛ばし気味だったような記憶があるが、クライマックス・シーンは凄愴の一語に尽きた。
ただし、人類主義は、かってNW華やかりし時代に糾弾されたことがあるように右傾的色調を帯びやすい。冷戦時には、むしろ国家主義への対抗的理想主義的スタンスもあったのだが、どうも今の時代にあっては、アメリカ流愛国主義の直裁な移し変えに見えるところが強まっている。しばらく前まで、そういう素朴な感情の発露もそれはそれで留保をつけつつ一体化ができたのだけど、最近は一応一体化できてしまう自分にいやな気分になる、そんなスタンスに変わってきている。
今月に限ったことではないけれど、それでもとくに今月は、本が読めない。
時間がないわけではないのだけれど、年度替りでばたばたして、「しっかり本を読む」という気になれなくて、自然「しっかり読もうとする本」が後ろのほうに積みあがる。ちょっと東京にいく機会があって、関係者その他と会う前に、せめて『九〇年代SF傑作選』と『フリーウェア』くらいは読んどかないとやばいわな、とか思いながら、結局『傑作選』の上巻しか片づかなかった。
しっかり読まない、楽に流れて読んでいる本は最近だと菊地秀行をけっこう読んだ。古本屋で新書本が大量にだぶついていて、新作本まで含めて百円に値崩れしている。たぶん十数冊片づけた。詠嘆調の強い本はあいかわらずつらいけど、性格の悪い主人公を据えて、ユーモア・タッチを強めた本は全体に楽しい。