みだれめも 第140回

水鏡子


 忘年会や新年会で同世代の人間が集まると、すぐ老眼やもの忘れの話で盛り上がる年代になった。職場や学生時代の同窓会と比べたときのSF系の集まりでの話題のちがいは、肉体的な衰えよりも「老眼」に関する比重がやたら高いところだろう。じっさいに関わってくるまでピンとくることは絶対ないのだけれど、「老眼」は読書習慣そのものの根本的な再構築を必要とする大事件なのである。カルチャー・ショックがあるといっていい。そもそもこのあたりの話で盛り上がるのも、自分にとって未曾有の事態に遭遇したセンス・オブ・ワンダーとそれを共有できる連帯感にはしゃいでいる面がたぶんにある。
 そうした経験を踏まえたうえでの、読者サイドへの忠告をひとつ。
 基本的に人間の考え方は二〇代も四〇代も変わらない。同じことを言っている。もしくは言ってるつもりでいる。ただし三〇代の頃であれば、自分の意見のなかにある留保条件、濃淡部分といったものへのチェック機能がそこそこに働いていたはずである。どうも年とともに、そういう意見の濃淡やひだに心の中で留保する、まず気力が減じてきたうえに、そういう細かな留保の部分から記憶が抜け落ちていっている気がするのである。これまでは、教条主義というのは思いついた意見を全面的に肯定してしまう姿勢の問題にあると思ってきたのだけれど、そしてたぶん若い世代での頭のわるさはやっぱりそういうことだと思うのだけど(シンプレックス・コンプレックス・マルチプレックス)、体力的な問題でひとによって相違はあるにしろ、四〇代の後半からの人の意見や文章には、まずまちがいなく老化に伴う思考を突き詰めるための気力の減退、もの忘れや仕入れた知識が身につかない、記憶の細部の欠落に起因したあたまのわるさや教条主義がかぶさってくるとみなして、たぶんまちがいない。それをどこまで経験の蓄積でごまかすかが送り手側の技術ということなのだけど、基本的には三〇代のころに比べて頭は悪くなっている、そう哀れみながら読んだり聞いたりするように。

 といったことで、読んで一月くらい経つと感想を書くのも一苦労するほど細部の記憶が欠けて難渋するというのに、なんで三十年も前に読んだまま読み返していない本の記憶がくっきり生き残っているのか、このあたりが記憶の不思議というものだよなと思いながら突合を楽しんだのが古橋秀之『サムライ・レンズマン』(徳間デュアル 733円)。昔馴染の登場人物とのお約束的顔合わせはまあお遊び的な楽しさだけど、惑星トレンコの異星描写、そしてなによりクライマックスの攻防は圧巻で、まさしくいまや見られなくなったレンズマンの魅力をレトロかち現代的に蘇らせる離れわざに成功している。これはアメリカ人には書けないなと思ったのは悪役のセッティング。本書を読んで初めて気がついたのだけど、レンズマンにおける二者というのは、個性を輝かせる組織集団が個性を圧殺する組織集団を個性を輝かせることによって撃破していく話であって、しかしその根本はアリシアとエッドールからなる階梯集団同士の組織対組織の戦いだった。少なくとも日本のヤングアダルト文化の悪役は、ベルクカッツェとデスラーとシャーの登場と高評価とともに英米若者向け冒険活劇のレベルをはるかに凌駕してしまい、本書もまたその文化線上にある。所詮アリシア人の下働きのレンズマン集団に対し、エッドールなど歯牙にもかけない本書の悪役の設定は、アリシア・エッドール代理戦争というレンズマンの基本枠組みを逸脱している。対立の在り方としては、「ミュール対ファウンデーション」に近い。
 「レンズマン外伝」としては予想以上の出来栄えで、絶賛に値するのだけれど、ただし本家の『レンズマン』について、中高校生で熱中していたときでさえ、熱中する頭の片隅で作り出された世界の大雑把さに、こんなものに熱中してはいかんのでないかなどと思ったりした記憶もないではないだけに、純然たる作品評価としては若干の減点がある。しょせんレンズマン、ただしレンズマン。

 エリック・ガルシア『さらば、愛しき鉤爪』(ソニー文庫 860円)
 ユーモアの漂うSF系ハードボイルドというのは、どうしてどれもこれもこんなに気持ちがよくて、そのきもちのよさのぶん評価が中の上と上の下あたりでとどまってしまうのだろう。ひねりをきかせた予定調和の結末にやられたなあとか思いながらなんとなく安心してしまい、傑作を読んだという衝撃性に結びつかないところがある。F・ポール・ウィルスン『ホログラム街の女』、ローレンス・ワット・エヴァンズ『ナイトサイド・シティ』、マイク・レズニック『一角獣を探せ!』、リチャード・バウカー『約束の土地』、ジョージ・アレク・エフィンジャー『重力が衰えるとき』、ジョナサン・レサム『銃、ときどき音楽』、なんて本がある。街が空を飛んだり、電気器具がブレーメンの音楽隊をするマイケル・マーシャル・スミスあたりになると、度肝を抜かれてユーモアSFハードボイルドの範疇から抜けて高く評価してしまう。
 本書は恐竜たちが新生代以降も生き延びて人間の皮をかぶって人間社会でどうどうと生きている社会を舞台にしたハードボイルド。基本設定にひねりを加えた事件の謎を追って、尾羽打ち枯らしたヴェロキラプトルの私立探偵が、感動的なラストに向かって右往左往する話。細かいアイデア、それにからまるエピソードが山のように盛り込まれているけれど、基本的に大枠のアイデアがまずあって、その馬鹿な設定に整合性を持たせようと書き進めるうちにこまごまとしたアイデアがどんどん派生したんだろうと思う。身の丈数メートルのティラノやアパトサウルスがどうやって自分の体を人の体形に押し込めるのかはかなり謎であるけれど細かいことを無視すれば、意外とハードボイルドだし、意外とSFだし、笑いのセンスも品がいいしで、すなおにお勧め。

 その他読んだ本。
 デヴィッド・アーモンド『闇の底のシルキー』(東京創元社 1900円)
 純正児童英国リアリズム系ファンタジー。出世作である前作『肩甲骨は翼のなごり』は、話の本筋よりも環境問題を論じる女の子の一家の処世訓的な部分がうっとうしかったりして、全体になじめなかったのだけど、本書にはそういう違和感はなかった。
 夏目房之介『マンガ 世界 戦略』(小学館 1500円)
 コミックの海外展開について俯瞰的整理がなされているかと期待して買ったけど、単なる現場レポート集。個人的な交友を綴っているだけと言ってしまっていい。今までに読んだ著者の本のなかではいちばんつまらない。
 おっきな本を読むのに気後れしたときなんかにとりあえず1冊32円で買っているコバルト文庫に手を伸ばしたりしている。最近読んだ中でだと小沼まり子『ルード・ガール』(だっけ)が楽しめた。久しぶりに読むSFでもファンタジイでもないヤングアダルトだったせいかもしれない。コバルト文庫の2001年版解説目録を見ると、氷室冴子が大量に抜け落ちている。あの業界もシビアな世界なんだなあと改めて思った。


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