みだれめも 第134回
水鏡子
■「FFX」が終わってしまった。召喚獣はバハムートまでしか揃っていない、曇った鏡も古ぼけた剣も活性化しない、7曜の印もサボテンダーの村も海底寺院も終わっていない。まだひとひねりあるだろうと突入したら、ジェクトをやっつけて終わってしまった。もしかしたらマルチ・エンディング?
シナリオ的には未来都市ザナルカンドやシンの正体について意外と骨っぽいアイデアを呈示していて、メインストーリーはシンプルな造りの本格<中篇>SFに仕上がった。長編SFと呼ぶには脆弱さが残った。
■「千と千尋の神隠し」に圧倒された。日常から異界に渡るスムーズな導入部から、日本的な感性が日本人離れした壮大な結構のなかで目一杯広げられる風景は壮観の一語といっていい。海外向けを意識したよそよそしさが感じられた「もののけ姫」より、ずっと世界がやわらかく脈動している。後半のシナリオには不満が残った。圧倒的な前半に比べてお姉さん婆さんの登場するアクション過多の後半が、わりと安っぽい見慣れた風景。内政の行き詰まりを外との戦争でごまかす政策運営を連想させる。できることなら湯屋の中での千尋のおしんばなしで物語を完結させてほしかった。とはいえ前半だけで充分傑作。
■『少年画報大全』(少年画報社 2762円)は、作り手の愛があふれる逸品。ぼくらの時代はすでに漫画月刊誌の王座は「少年」に移っていて、「赤胴鈴之介」や「まぼろし探偵」なんかもむしろTV、ラジオ・ドラマの方の印象が強かったりして、雑誌そのものへの愛着はそれほど強くはない。
だけどこの本を見ると、これはぼくにとっての直近の過去、絵物語が子ども文化の中心に位置した時代に黄金期を迎えた雑誌だったのだなあと実感した。「黄金バット」に代表される紙芝居作家を中心とした絵物語の、それも意外なくらいメディアミックスを展開していた重厚な児童文化の中心的存在だったこの雑誌が、(あるいはメディアミックス展開をしていた児童文化の中核であったがためのしがらみこそが原因で)、技術的にもスピード的にもメディアミックスが困難な漫画主体の軽快な文化へ時代が移行していくなか、旧文化を代表していたがために新時代への舵を切りそこなったふうに感じられた。そしてたぶんぼくなんかも、そんな時代の変わり目には旧文化に義理立てしてしまうタイプだったろうなと思ったりして。
■愛にあふれたヴィジュアル本をもう1冊。『食玩恐竜フィギュアオールカタログ』(実業之日本社 562円)は、前回紹介のお菓子業界食玩具恐竜3社のフィギュアの本。カタログにお菓子会社、製作会社それぞれの、詳しい担当者インタビューがつき、恐竜学の入門講座、映画リスト、全国博物館ガイドと、まさにいたれりつくせりで製作者の熱意と意気込みが伝わってくる本。
SF大会で東京に行くと集めている人間がたくさんいた。
結局カバヤ・ダイノワールドは、風船ガムがネックになって20種中8つくらいしか買えなかった。フルタ・ダイノモデルスは8種ともゲット。あとローソン・コカコーラ提携ジュラシックパーク・フィギュアというのが出てきて、そちらのほうも11種類手に入れた。チョコラザウルス同様海洋堂の製作。フィギュア袋の表には12種類しか載ってないけどNo.13のスピノザウルス頭骨見本というのをゲット。これがいわゆるシークレットというやつか?有名どころでぼくと相性が悪いのがトリケラトプス。どうもくじ運が悪い。
■漫然と見流していた新聞の連載小説に、なんだこれはと居住まいを正したのは、三月のあたまくらいだったろうか。明治の文壇風景に現代風俗をちりばめるといった趣向に、だからどうなのといったわりと冷たい態度で接していたのだけれど、その話を書いている作者のところに担当編集者が読者からの非難の投書を持ってくるといったあたりからなんか凄いことになってくる。実際の投書なのか創作なのかわからないけど、天下の大朝日の読者を仮想敵にしたてたような兆発的反権威主義が小説の底を一段抜いたみたいになる。朝日新聞の紙面でフランス書院を絶賛したのも凄かった。2週間後にはその記事をフランス書院が帯広告に引用したのも楽しかった。最初は現代用語や現代風俗をちりばめながらの明治を舞台にした樋口一葉と創作ワークショップの先生とのラブストーリー風だったのだけど、その小説を書いている現代の作者のもとに森鴎外がやってきて(明治から引っ越してきたそうだ)知り合いの出版社を紹介してくれないかと言い出すあたりから話は錯綜してくる。あ、忘れていた高橋源一郎の『官能小説家』という話である。この人の小説でぼくが最後に読んだというか放り投げた小説は『ジェイムズ・ジョイスを読んだ猫』だからずいぶん昔のことである。エッセイは競馬系文学系ともけっこう読んではいたけれど。
例会で話題に振ると、源一郎って離婚して再婚したんだってとか言われてえっと驚く。そう言われると樋口一葉の話というのは、自分の体験話だったりするのかもしれないとか思いながら、嫁さんである室井佑月の本を何冊か読む。(『Piss』『ラブゴーゴー』『作家の花道』)
修羅場をくぐってきたお姉さんで、エッセイの文章はあけっぴろげでいけいけどんどん、小説は水気があってうまい。でもまあ、ぼくの守備範囲外。山田詠美や内田春菊の近くかな。とかなんとかチェックしてたら、週刊誌の見出しに二人が別れたとか書いてあった。そうなのかというより、そういう話が広告の見出しになることのほうが驚きだった。
久しぶりに競馬中継を見ると、タカハシさんがレギュラー・コメンテーターになっている。1年くらい前だっけにウルグスで江川卓と競馬予想をやってたときとえらく雰囲気が変わっている。どうなっているのでしょう?
まだ本になっていないけど『官能小説家』は傑作の部類。この本はタカハシさんのなかでも孤絶の作品なんだろうなと思ったら、ちがってましたねえ。
触発されて読んだ本が2冊。平成10年「週刊女性」に連載された連作集『あ・だ・る・と』(主婦と生活社 1500円)は、AV業界を舞台に、主人公を変えながら業界の人間模様を描き出す連作集。人間模様の中心はピンと呼ばれるAV監督である。いかにもな猥雑な熱気渦巻く小説で、しかも最後は求道者系AV監督が登場して、猥雑さから遠く離れたタナトス系の哲学的境地に締めるという、ツボを抑えた、ある種予定調和のなされた秀作だった。
「群像」に97年から3年間にわたって連載されたのが『日本文学盛衰史』(講談社 2500円)。すごいなあ。週刊誌連載の『あ・だ・る・と』、文芸誌連載の『日本文学盛衰史』、新聞連載の『官能小説家』、発表媒体の読者を意識して、それぞれに違うタイプの小説・文体に書き分けている。高橋源一郎ってこんなことができるんだ。しかもそのくせタイプの違うこの3冊が、自由自在につながっているのである。
言文一致体をめざす勃興期の日本文学の歩みと大逆事件を題材に、主人公に石川啄木を据え、夏目漱石と森鴎外を配し、全景に二葉亭四迷の影を落とすかたちで書かれた『日本文学盛衰史』は、とにかくやたらと葬式のシーンが連なる陰々滅々とした話である。
物語は二葉亭の葬式の場面から始まる。葬儀に参列した鴎外に漱石が話しかける。
「森先生」
「なんですか」
「『たまごっち』を手に入れることはできませんか。長女と次女にせがまれて、どうしようもないのです」
「『たまごっち』ですか。娘のマリが持っていたと思います。確か新『たまごっち』の方も持っていたようだ。どこで手に入れたか訊ねてみましょう」
「ありがたい」
と言った会話が交わされて、章が替わると、伝言ダイヤルにはまっている石川啄木が活写される。『官能小説家』の試みはすでにここでなされていたのである。
で、読み進めていくと、突然AV監督のピンが登場する。『あ・だ・る・と』なじみの面々の再登場である。田山花袋の『蒲団』をAV化するのである。そしてピンの指導のもと花袋もAV監督としてデビューすることになる。(ちなみにピンが花袋の前に雇われカメラマンとして仕事をしたのは庵野英明という監督でその話も何ページか書いてある)
このAV業界ネタは『官能小説家』でも出てくる。現代に引っ越してきた森鴎外はAV男優として頑張ったりする。『日本文学盛衰史』のなかでも吐血したタカハシさんは運ばれた病院で横に寝ている漱石をお話したりしている。タカハシさんの恋人は一葉を連想させる「夏」という名前になっている。
ひとつひとつの作品はきちんと独立しているけれど、3冊読むとさらに興がのる。いろんなことをやってるし、どれも読んで面白かったわけだけど、メタフィクションではあるものの、これはまあ、SFとは基本的に関係ない。ひとまとめにしてしまえば「文学」というお仕事である。へんな話だけれど、3冊の中ではいちばんあたりまえの『あ・だ・る・と』の収束のさせかたあたりにこれまで読んできたSFにいちばん近しい感触を得た。
■タカハシさんを読んで「文学」とはこういうもんだったよなあ、と感慨をあらたにして、次に読んだのが奥泉光『鳥類学者のファンタジア』(集英社 2300円)。
あれあれ「文学」がどっかへいってしまった。これはまたとんでもなく極上の「お話」で批評的読みをするのがもったいない。今年は『カブキの日』『グランドミステリー』対決の再来を期待して、まず『モンスターフルーツ』を読んだのだけど、この前書いたように巻頭の1篇を除いてやや失望した。おまけに楽しんで読んだはずの『グランドミステリー』もどんな話だったかよくおぼえていない(潜水艦が時間旅行をするけれどSFとは呼べないなあ、とかいった話だった気がするのだけど)ていたらくで、たぶん前のよりつまらないかなとか先入観を持ちながら読んでみたら傑作だった。極上のエンターティンメント。
ジャズピアニストの女主人公がオカルティズム音楽に係わった祖母をめぐる因果にからまり、第二次大戦終戦間ぎわのベルリンに連れて行かれる話で、キャラの立った主人公が過ぎ行く客の気安さから、きさくなコメントを連発しながら事件に気ままにコミットしていく。
ぼくの大きな欠陥のひとつは音楽的素養に欠けていることで、音楽的な楽しさも活字を通じた近似的な把握しかできないでいる。音楽を聴くことについての楽しさなんかも活字的に体感させてくれたところも、この本の魅力のひとつである。「文学」とはなにかなんてシンギンすること自体がバカバカしくなってくるのがこの本の魅力であるのであるけれど、だからといってシンギンするタカハシさんをバカにしてはいけないよなあと自戒する。あれも小説、しかも傑作。これも小説、しかも傑作。それからどちらもSFではない。