みだれめも 第133回
水鏡子
■今『FFX』を買ってきてやっているところです。
あ、しゃべるんだ、というのが、とにかくの印象。たしかにゲーム屋の店頭デモでもしゃべっていたのだけれど、あれを見たときはそんなに気にもしなくて、映像の華やかさに目を奪われていた。じっさいにやってみると、まあ、とにかくしゃべるしゃべる。主人公がしゃべるというのが、こんなにゲームの性格を変えてしまうとは思わなかった。
主人公のセリフを読むということが、自分がしゃべっている気になって、主人公との一体感を作り出していたのだと反面教師的に納得できた。しゃべっているのはやっぱり自分でないわけで、どうしても突き放して<鑑賞>してしまう。熱くなれない。鑑賞に堪える映像美はあるし。動きのある風景、バトルシーン、いかにもFF的イメージのままどんどんみごとになっていく。人物についてはまだ進化してもらわないと。進化するんだろうなあ、たぶん。中途半端にリアルなところが記号扱いできなくてかえってつらい。ヒロインの顔には不満が残った。
ただ、やりながら感じたのは、これはもうゲームではなく、インタラクティブ・ドラマとでもいうべきジャンルだなあ、ということ。進行の指示を与えながらのドラマ鑑賞。それはそれで新しい娯楽手法といえなくもない。「ジョゼ寺院」の解き方がわからなくて、2日近く頓挫したりはしたけれど、前半はそれほど難しくもない。アルベド語の辞書をだいぶん広いそこなったけど、大きな影響はないだろう。たぶん。とりあえず○。
■ジャンル的に敬遠してきた分野にフィギュアの世界というのがある。
まあ、なぜかというのはいろいろあるけれど、並べるための空間がもったいないというのも意外と大きな理由であったりする。本なら積み重ねることができるけど、組み立てたフィギュアの周りは空間が必要だし、さらに展示物の上部空間をどう処理したらいいか、見飽きたらどう片づけて整理していくのがいいか、そんなことがけっこう問題だったりする。
そんなこんなでここまで無視を通してきたのだけれど、例会に菊地誠が持参した味覚糖チョコラザウルスで一気にはまった。
チョコエッグで一世を風靡した海洋堂が味覚糖と組んで満を持して放った恐竜フィギュアで第1期24種中22種をゲットする。販売一月足らずでどこのお菓子屋も売り切れという状態に驚いて、慌てて味覚糖の株を調べたけれど上場してないようだった。残念。
お菓子界恐竜大戦争の噂は菊地誠経由で聞かされていたので、7月に出たフルタ・ダイノモデルス(全8種)とカバヤ・ダイノワールド(全20種)もさっそくいくつか拾ってみた。
まず、ロバート・パッカー製作総指揮を謳い文句にしたダイノワールド。
完成形で組み立てる手間が要らない、入っている恐竜の種類が判るといった親切さがコレクト気分に水をさす。つやつやした色合いも若干おもちゃっぽさを印象づける。最悪なのが中に入っている風船ガム。これを10個も20個も消化するのはとってもつらい。
ダイノモデルスは8種に絞り込んだところが良。3社のなかではいちばん大きめ。体躯部分を三分割の組み立てキットにしているところが質感を感じさせていいのだけれど、そのぶん全体に肥満気味。ラムネ菓子はまあ数をこなせる。
チョコラザウルスはなんといっても骨格模型が魅力。個別には他の二社よりちゃちいものもあるけれど、とりあえず骨格模型で一歩リード。三角柱の外箱というのも、フィギュアの展示箱に転用できてポイント高し。シノサウロプテリクスとかオパビニアとか接合部分が折れやすいものがあった。
■古本屋で『はみだしっ子・愛蔵版』全冊揃を各百円でみつけて、ひさしぶりに全巻通して読み返した。
思いがけない余禄があった。
最終話の印象が、直前に読んだ『ルー=ガルー』のラストと重なったのだ。
京極夏彦『ルー=ガルー』(徳間書店・1800円)は、ひさしぶり、素直に面白かった京極本。読み出した直後は、女の子たちの会話とか状況説明とかが薄っぺらくて引いてしまうところがっあったのだけど、橡の登場あたりから締まってくる。状況設定も、全体系への目配りが利いた制度的な解説がきちんとなされて奥行きが生じ不安が解消されていく。
ただしメインプロットは、めちゃくちゃ荒っぽい。京極夏彦のやなところはあらかじめけなされそうなところを自分から喧伝してしまうところで、たとえば『どすこい(仮)』の場合、「くだらない、ほんっとうにくだらない」と繰り返していたけど、本書の場合も、「荒唐無稽だ。低俗なショート・チャンネルでもこんなものは配信しない。百年前のフィクションだってこんな馬鹿なストーリーはない」と登場人物に語らせている。連続殺人の真実だって、やたらとていねいな伏線を張り巡らせて、ミスリードを誘う努力もほとんどしていないから本の半ばでほぼ割れてしまう。
別にそれでいいんだろう。安っぽいストーリーだから、生きるキャラというのもある。クライマックスの美緒のいでたちなんか、文芸色が強かったらとても生き延びられない。麗猫なんかもそうだ。
そしてなによりいいところは、きちんとSFしていながら、この本は「救いが生まれる」物語であるということ。
SFは<世界>について語る物語であるというのが、持論であって、「世界を語ること」「世界が変わること」「世界を変えること」「世界を救うこと」を主眼として話が作られるものであってほしいと考えている。キャラ重視とかドラマ重視の言い訳でそういう感動を与えてくれる作品がなかなかみつからないことに苛立ってたりするのだけどね。で、それをやりながら物語が人の思いに収斂していくことってなかなかむずかしいのだと思っている。
京極本というのはつねに「救いが生まれる」ところに収斂していく。教養にあふれた、非常にレベルの高いお涙頂戴本であり、その背景世界のリアリテイを支えているのが世界を構成する多種多様な事象に対する制度的理解である。そしてその制度的理解の手続きが、SFが見せ所として使用する世界認識と一致したものなのである。
前回、ファンタジイの世界にSFの論理を導入したアンノウン型ファンタジイに言及した。京極本の世界というのは、さしずめアンノウン型ミステリといってみてもいいのではないか。
『巷説百物語』は、妖怪仕立て必殺仕掛け人といった趣向で、この世に妖怪なんていやしない、ほんとうに不可思議なのは人の心の闇のなか、なる結語へとすべて話を持っていく、やや賢しらさがまさった連作集だった。
『続巷説百物語』は前作の芸達者たちによる連作長編。エピソード短編を並べて最後に帳尻あわせの中篇で締めている。話が大掛りになったぶん、前作より安普請が目立つ仕上がりになったけれども、又市一味の仕事の意味について新たな思想が展開される。
「この男、二進も三進も行かない憂き世のしがらみをあの手この手で解き解すという摩訶不思議なる裏の生業を持っているのである。
からくりを知らぬ者の目から見るならば、凡てはこの世の者ならぬ、彼岸のモノの仕業としてしか映らぬだろう。知っている百介ですら騙される。
ことは収まるが、結果、妖怪が湧く。
それ故に又市は妖怪遣いなのである。」(456頁)
やってることは同じなのだけど、前作の場合だと世間を妖怪変化でだまくらかす<偽妖怪遣い>である。本編の場合は世間に妖怪変化を湧かせる<真妖怪遣い>となる。視点の取り方ひとつで真偽などというものがこうも変貌させられるのかと、こういうところに<SF>の醍醐味はあるはずだと思ったりしているところであります。
『続巷説百物語』の前身である去年出た京極シナリオ本『怪・七人みさき篇』も読んでみた。時間制限のある映画のシナリオの中ではどれだけのものを詰め込み、どれだけのものをはしょらないといけないかとかがわかるという意味では楽しめないこともないけど、先に『怪』を読んでたら『続巷説百物語』がつまらなくなるし、『続巷説百物語』のあとから読むと理屈が楽しい京極本のあらすじだけを読まされてるみたいだし、どちらを先に読んでも相乗逆効果しか生まない。読まないほうがいい。
■小林泰三『ΑΩ』(角川書店・1500円)
ウルトラマンばなしを無理なく小説に落とそうという心意気とテレが同居しているみたいな前半は、連発されるギャグのおさまりが悪く、困った本という印象が先行した。
千秋の首がごろんと転がる後半の人間もどき篇に入って話は一気に盛り上がる。悲惨な描写と漫画っぽさが互いの弱さを打ち消しあって、読み応えのあるシーンが続く。てっきり『影』の本体に憑依されたと思っていた登場人物が物語的にまったくの役立たずで、その他あきらかに始末をしくじっていったい何のために出てきたのかのわからなくなった主要登場人物が3人ほどいるというのは、作品評価として致命的なはずだけど、それでもなおかつ舌鼓をうつ面白さは確保されていたと思う。
■倉阪鬼一郎『ワンダーランドin大青山』(集英社)
この人の小説を読むのは本書がはじめて。過疎の村の村おこしに協力しようとした大青山の古狐の失策が日本全国を震撼させる大事件に発展していくお話に、古狐の片腕と信頼されていた猫又から人間に生まれ変わって、そのあと死んで亡者になって、お盆に霊界に帰りそこない大青山に戻ってきた黒野猫彦と娘狐コンチャンの話とか地獄の労働争議、狸や鯰の話やなんやかやが、ある意味ずさんに野放図に気楽気ままにつづられて、なんやかやがけっこう適当にほっぽりだされた気もするけれど、楽しく読めた。ジャンル的には南條竹則の仙境小説あたりと連なるものといえるだろうか。