みだれめも 第130回
水鏡子
恥ずかしながらビジョルドを一冊も読んでいない。じつはチャンドラーのリム・シリーズのあたりから(ということはずいぶん昔からということである)<宇宙軍>風小説に、なんかうっとうしさを感じるようになったところにミリタリーSFブームなんかも重なって、余計読まなくなった。単発物はともかくとしてシリーズ物がどうもだめ。スペース・オペラがきらいなわけではないはずで、途中で挫折したとはいっても<デュマレスト>なんが20冊以上読み進んだはずである。辺境のはぐれもの部隊系の話(エイヴァリー、ザーン、アスプリン、ガードナーなどなど)なんかはむしろけっこうツボのようで、いそいそと手を出してはゴミと!叩きつけることを繰り返している。
どうやら非人格的なはずの立派な組織の中で営々と出世していく話といった先入観が読書意欲を削いでるみたい。と、同時に、そんなヒーロー中心の物語に、SFならではともいえる<世界の成り立ち>や<世界の在り方>を読みどころにした小説が見つかるはずがないといった思い込みも混ざっている。ヴォルコシガンなんて名前もなんかやだ。
そんな作家のファンタジイが出ると、わりと喜んで手を出してしまう。たとえば、読まずぎらいの気味があったデヴィッド・ブリンの場合なんかファンタジイ作品『プラクティス・エフェクト』を読んで、おう、こいつはやっぱりSF作家じゃ愛いやつ愛いやつ、と、態度が変わった。アスプリンのマジカル・ランドも、評価していく気持ちの中には同じようなものが混ざっている。
というわけで、『スピリット・リング』である。
個人的には、SFもファンタジイも<世界の在り方><世界の成り立ち>みたいなところにこだわりを持っているのがジャンル小説としての正しい<形式>であり、そこにエンターテンメント小説全般の<人生の在り方><人としての処し方>がきちんと重ねられて、いい作品になるのだと思っている。その<世界の在り方><世界の成り立ち>をめぐる文法のちがいがSFとファンタジイの感触の差となって表れるのだと思っている。
で、『スピリット・リング』である。世界の背景設定とかを日常性の域に至るまでこまやかにしあげているのであるけれど、結局話の主眼はヒロインの、<人生の在り方><人としての処し方>をめぐる物語でしかないのである。この現実と違和感のある世界を作り出し、その成り立たせられ在らされた<世界>のリアルさでもって読み手を挑発するという、ジャンル特有のお約束的にルーティン化され衰微したものになっている欠点を兼ね備えてはいるものの、そうやってSFやファンタジイがジャンル性の名のもとに獲得してきた手ざわりが、とんと感じられないのである。何年か前にメリッサ・スコットを読んだときも同じような印象があって、勢い込んで読み出した三部作をなんのために読んでいるのかと嫌になって投げ出した。
あのときよりは小説としての厚みはある。さすがに一流作家である。けれどもヒロインと周りの人間関係だけに主眼が置かれた、魔法が存在するだけであたりまえの世界なんかおもしろくもなんともない。
そのつまらなさは、小説としての厚みは『スピリット・リング』と比べると二次元レベル、シノプシスといっていいくらいペラペラだけど、マクロなシステムへの目線だけはきちんとしている兵站学入門SF系ファンタジイ『大魔術師、故郷に帰る』(マジカルランド10)と比較してみることで明確になる。
さらに、<世界の在り方><世界の成り立ち>にきちんとこだわりの目線を持ち、小説としての厚みを兼ね備えた、つまり傑作と呼ぶに足る作品に仕上がっている、ただしそれがあくまでファンタジイの<世界の在り方><世界の成り立ち>である『スパンキイ』(クリストファー・ファウラー)と比較もしていただきたい。逆にいえば、『スパンキイ』にあって『スピリット・リング』にないものこそ、ぼくが今回のキーワードとして使用した<世界の在り方><世界の成り立ち>へのこだわりの目線ということになる。こういう言い回しのことをトートロジイといいます。
それにしても、世の中ではファンタジイとして流通しているけれど、ぼくとしてはSFの一分枝扱いしている<マジカルランド>を眺め、一方で『スパンキイ』を見ていてつくづく思うのは、<マジカルランド>の安っぽさ、にもかかわらず評価できてしまうところこそSFの手ざわりなんだろうなという思い。ファンタジイの手つきのなかでこだわられる<世界の在り方><世界の成り立ち>は、小説の厚みを重ねないことには端にも棒にもかからない愚作にしかならないような気がすること。そこにSFの有利さ不利さがある気がする。
とりあえず、ビジョルドはとうぶん棚上げです。
『だれが本を殺すのか』佐野真一は、かなりいらだたしい本。出版問題の概説書としては著者が豪語するように<出版の川上から川下までを網羅>した記念碑的力作であるのだけれど、出版システムの危機についての総体としての総括を著者個人の言葉として届けようとしない。データとインタビューで構成して自らが黒子に徹するというのであればそれはそれでひとつの見識といえるけれども、その一方で、個別のインタビュウー内容やデータに関してかなり恣意的な感想・主張・人物評価を過剰なまでに書き連ねる。システムの危機を語るのに、インタビュー対象者の学歴だの人物評価を書き込むことは役立つ部分もないではないが焦点をぼかす面のほうが大きい。
何冊かの出版問題本を読んで感じたことは、、基本的に、著者たちが忌み嫌っているコミック、雑誌、ベストセラーといった巨大流通本をめぐる業界全体でのパイの取り合いリスクの押しつけあいというのが今の出版危機の問題がであるのに、著者たちが本来の本であると考えている<良書>をめぐる流通の問題とごっちゃになっているということである。一方で良書の流通の目づまりを起こす巨大流通本の存在をけしからんといい、一方で巨大流通本が売れなくなってきたことにより、本屋が立ち行かなくなっている状態を憂えるという。出版危機の議論を単純化するには、とりあえず<良書>を読者に届けようといった文人的論調をまず封印するところから始めるべきではないのだろうか。