内 輪   第127回

大野万紀


 東京の仕事は一段落して、4月からまた大阪に帰ってくることになりました。このままずっと東京かと思っていたので、ちょっと拍子抜けかも。しかし、大阪は大阪で忙しい日々が続いています。
 翻訳の仕事も入ってきたので、OCRソフトを購入しました。翻訳家の間では定評のあるTextBridgeです。やっとまともな英文OCRを買ったというわけです。プロ用のOCRソフトは高いという印象があったのですが、これは安い。たまたま決算の安売りに当たったせいもあるかも知れないけど、何と1万円以下で買えました。しかも使ってみてびっくり。これまで(たまに、だけど)使っていた、あえて名を秘す国産OCRソフトと比べて、認識率は雲泥の差。これなら充分実用になるレベルです。認識させた後の修正に時間がかかってちゃ、意味ないもんね。これまでちゃんとしたソフトを買ってなかったわたしがアホでした。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『銀河帝国の弘法も筆の誤り』 田中啓文 (ハヤカワ文庫)
 わー無茶やりよるなー、で済ましてしまってもいいのかも知れない。思いっきり楽しそうな作りの本で、とりわけ著者やS澤編集長を知っているともっと楽しいわけなのだが……開き直ったその態度が気に入らないのよ。いや、実は気に入ってるんだけど、うーん、参ったなあ。つまり、これがただの色物として(いや色物なんだけど)、ひとときのお祭り騒ぎで終わってしまったら寂しいなあ、というわけです。だって、「嘔吐した宇宙飛行士」とか「銀河を駆ける呪詛」なんて、これは傑作ですよ。とりわけ「嘔吐した宇宙飛行士」は大傑作。「銀河帝国の弘法も筆の誤り」もまあそれなりに。付録の「〈人類圏〉興亡史年表」も「〈人類圏〉歌謡全集」も「文庫版のためのあとがき」も、あ、あほやなあ、と地底人を負かした最低人のようにいってやりたくなるいい話。SFの半分は駄洒落でできていると、かのメリル女史もおっしゃった(嘘)ように、筒井、ラファティ、アンソニイ、横順、などなど、駄洒落でSFを書いた作家は少なくない。作者は〈駄洒落SF〉というSFの重要な一ジャンルの正しい後継者なのだ。でもな、一応SF研の先輩やから、ちょっと偉そーなこというけどな、SFM4月号の写真はあかんで。駄洒落と知性は両立させにゃ。これでええ思うたらあかん。まだ最低人がおるで。最低人は怖いんや。これに対抗するにはやっぱり知性しかないでしょう。うちのパソコンにだってインテリ入ってる時代。これからもちゃんと、知性的でかっこいい駄洒落SFを書いてな。

『ブラックロッド』 古橋秀之 (電撃文庫)
 ぼくらの世代(40越えたおっさん)では、ヤングアダルト系と呼ばれる作品群にはなかなか手が出せず、その中に傑作SFがたくさん含まれていても見過ごしてしまうことが多い。SF関係者の中でそれらを良く読んでいる人たちの評判や、ネット上の評判を見て、これは面白そうと思った時には、すでに手に入りにくくなっていたりする。本書ではじまる〈積層都市ケイオス・ヘキサ〉三部作については、『SFが読みたい! 2001』で三村美衣が絶賛していて、そこに書かれた紹介がいかにも面白そうだった。三村美衣の評価は外してることも多いんだけど、まあ傾向が大体わかっているので、ぼく的にキャリブレーション可能。運良く三冊とも入手できたので、読んでみる。第一作の本書は、なるほど呪術や魔法が完全にSFガジェットとなった世界の、サイバーパンク文体な物語で、サイバーパンク文体なのにすごく読みやすいのは作者に力のある証拠だろう。でも、直前に「銀河帝国の弘法も筆の誤り」を読んでしまったせいか、ギャグが弱いじゃないか、と間違った読み方をしてしまった。でもな、重装備した僧兵というか、機甲折伏隊と書いてガンボーズとルビをうつ、これってかのヤクーサ・ボンズのノリじゃないかと思ってしまうのだ。ワイドスクリーン・バロックもサイバーパンクも、大まじめにやるとギャグというかバカSFになってしまう(でも基本的にかっこいいから良いのだ)。そのあたりのにじみ出すものが本書ではまだ不足していて、かっこいいし面白いけど、ゲームやマンガでありそうな話だな、というところで終わっている。

『ブラッドジャケット』 古橋秀之 (電撃文庫)
 〈ケイオス・ヘキサ〉の二作目。第一作の過去の話ですね。アーヴィング・ナイトウォーカーの過去の話。でも、いくつかのストーリーが並行して語られ、まあ最後には収束するのだが、ストーリーそのものには有機的なつながりが薄く、エキセントリックな超人的殺人鬼というのが複数出てきて、それがまた一見したところでは似たり寄ったりなので、前作ほどの緊迫感やドライブ感がない。アーヴィングの性格づけもさほど魅力的とはいえないし。何か直感的な言い方だが、ファイナルファンタジーの悪い方の感想を思い起こしてしまった。グラフィックや技術はすごいのに、キャラクターの掘り下げやストーリーテリングに難ありというやつ。まあ、ダメダメというわけじゃなく、充分に水準作だとは思うのだが。

『ブライトライツ・ホーリーランド』 古橋秀之 (電撃文庫)
 〈ケイオス・ヘキサ〉完結編。悪霊の物語。今回もいくつかのストーリーが並列で進むが、時間線は同じで、関連するポイントもはっきりしているのでわかりやすい。緊張と弛緩というか、物語にリズム感があって、ストーリーテリングは格段にうまくなっている。大勢の人々が虫けらのように死ぬ殺伐とした話であることに変わりはないが、むやみに悲惨さや悲劇性を強調するのではなく、クリスとナオミとビリーの章のように、「細かいことの中にも、大切なことはある」という視点が生きていて、それが救いになっている。ただ、やっぱり、ぼくにはこの小説の大きな物語がもう一つ理解できない。この人(?)たちは、いったい何をしているのだろう。魔法や呪術を科学技術として、人々が吸血鬼や魔物たちと戦いながら暮らす日常、それはいい。悪霊がその存在意義である悪をなし、圧倒的な恐怖をまき散らす、それもいい。人間界とは別に伝説的な魔や鬼や仙人みたいな連中の世界があって、半ば傍観者、半ばカオス・ヒーローとなってちょっかいを出す、それもOK。人間界に色んな組織があって、それぞれがわけのわからない独善的な陰謀を巡らせている、まあその辺も(よくはわからんが)許せるだろう。でも、〈トリニティ〉とそれを遂行しようとする連中って、何? 本書の最大のポイントにして、最も不可解な点である。いや、説明は一応あるし、意味もわかっているつもりだ。でも、本書の世界において、それはどういう位置づけにあるのか。鬼神みたいな連中が跋扈しているこの世界で、神を作り出すとは、神とは、どういうものであるのか。ぼくにはやっぱり理解できなかったようだ。

『フラッシュフォワード』 ロバート・J・ソウヤー (ハヤカワ文庫)
 2分間だけ、世界中の人々の意識が21年後の世界へ飛んだ。そして起こる混乱、悲劇。この現象の理屈についてのハードSFっぽい議論も描かれてはいるが、未来を見てしまった人間にとって、自由意志とは何か、とか、人間の意識と行動をシミュレーションすることの方に物語りの主眼がある。普通であれば、中年男女の結婚の危機とかが深刻に描かれるのは、SFにとって本質的じゃないと思ってしまうのだが、本書の場合はむしろそっちがSF的スペキュレーションの対象なのだ。われわれも登場人物といっしょになって悩み、考えさせられるし、ストーリーもなかなかよく考えられていて面白い。ただし、本書の本筋がそっちにある以上、ラストのバクスターかクラークかというSF的ビジョンが、あまり効果を上げていない。全体的には面白かったが、ちょっとバランスに難があったように思える。

『20世紀のSF(3)/1960年代』 中村融・山岸真編 (河出文庫)
 60年代SFとなるとぼくの領域に入ってくる。選択はこれはこれでいいと思うが、やはりぼくの思うものとは微妙にずれている感じ。「水鏡子が怒るような選択をしたい」と編者はいっていたが、怒りはしないと思うけど、これはすごいともいわないだろうな。翻訳は浅倉さん大活躍。そして浅倉訳の作品はどれもいい。オールディス「賛美歌百番」はやっぱりいいSFだなあ。酒井訳のディレイニー「コロナ」もいいし、同じく酒井訳クラーク「メイルシュトレームII」もいい。伊藤訳ディッシュ「リスの檻」はもちろん。そして浅倉訳ラファティ「町かどの穴」なんてもう最高。他の作品も、傑作もあればそれほどでないものもあるが、読んで損するようなものはない。でもあんまり〈ニュー・ウェーヴ〉を強調するような選択じゃないよなあ。まあいいけど。この時代についての解説は、結局こうなるんだろうな。

『ロボットの夜』 井上雅彦編 (光文社文庫)
 去年出た〈異形コレクション〉アンソロジー。ロボットものということで、SFが多い。第一部と第二部がそうだ。第三部は人形もののファンタジーとホラー。そりゃあ、やっぱりロボットといえばSFでしょう。前半にそういういい話が集中している。草上仁「サージャリ・マシン」、斎藤肇「自立する者たち」、石田一「夜のロボット」(これは演劇という形式がよくあるアイデアを新鮮なものに見せている)、梶尾真治「小壺ちゃん」、青山智樹「夜警」、眉村卓「サバントとボク」(こういう作品は懐かしい)、堀晃「背赤後家蜘蛛の夜」、岡本賢一「LE389の任務」、菅浩江「KAIGOの夜」など。第三部も決してつまらないわけじゃないが(高野史緒「錠前屋」、竹河聖「角出しのガブ」など、とてもいい)、魂の宿る人形より、人工知能の宿るロボットの方が、ぼくには心ときめくものがあるのです。


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