みだれめも 第129回

水鏡子


『SFが読みたい! 2001年度版』は、期待以上に読みごたえがあった。
 なかでも「90年代SF座談会:2001年SF解放宣言」が必読。90年代ベストの一覧表を見ながらの鏡明、山田正紀、大森望の座談会のはずだけれど、巻頭<十二国記>のSFとしての評価を巡り、実質山田正紀がインタビュアーになった鏡明流SF観の開陳となった。この<インタビュー>の重厚な内容がそのまま本全体の印象に強力な波及効果を与え、読み応えを高める結果となった。
 じっくり時間をかけて結晶化された独自性の高いSF論で、従来のSF観の枠組みで読み進めようとするとかなり難解。平易な語り言葉で述べられているぶんだけ、よけい紛れが生じやすく捉えづらい。活字になったものを読んでみてもそうなのだから、鼎談の参加者にはもっととらえどころがなかったことだろう。SFもファンタジイも<想い>を軸に成立した<文化>とその文化が生み出す<製品>として捉えようとする一種の文化社会学的アプローチと解釈させてもらっっている。ぼくのSFの規定の仕方とたぶん対極的な位置にある、ぼくがやや意識的に切り捨てた部分を中心としたSF論といっていい。これはちょっと日を代えて、じっくり図式化してみたい。乞御期待。

 3月に2週間ほど、体を動かせない、仕事ができない、パソコンもさわれない、TVを見るのも金がいるという事態に直面した。なにをしようかと考えて、こういうときでもないと読めそうもない本というのを、図書館からまとめて借り出した。

 むかし『世界の名著・ヘーゲル』に収められた「精神現象学序説」というのが相当に面白く読んだ記憶があって、そのときの気分をばねに一気読みを目論んだ。
 結果は失敗だった。岩波文庫だからと拝んではいけない。『歴史哲学講義』は紛うことなきトンデモ本の類である。ヘーゲルは人間の歴史を、自由が拡大し、理性があまねく支配する世界の到来を究極目的とする歩みであると規定する。
 そのこと自体が悪いというわけではない。ただの稚拙なユートピア進化史観というだけのことである。
 問題はその論調にある。
 歴史の傾向を措定し、その傾向に見合うかたちに事象を例示し論証するというのならまだ許される。
 問題は、それを唯一無二の真実だと決めつけて、無条件に受け入れよと読み手に強制し、牽強付会の噴飯ものの解説を声高に語りあげるはずかしさだ。
「以上に述べたさまざまな特徴からうかびあがるのは、黒人の野放図な性格です。こうした状態にある黒人は発展することもなければ文化を形成することもなく、過去のどの時点をとってもいまとかわらない」
「(西洋人は中国人より)もっと上品な感受性の持ち主だからです。中国人には高潔な主体性というものがなく、子どもと同じように、殴打を罰としてよりも、しつけとしてうけいれます。」
 「18世紀ヨーロッパ人世界で一番進歩した人間」史観であるといえばそれまでだけど、まあ、とにかく、まともな歴史書ではない。ほとんど異世界ファンタジイののりで読める。革命的と評判の長谷川宏訳はほんとうに読みやすいのだけど、少なくとも仮に今の時代にヘーゲルが生きていたら、差別発言うんぬんで諸団体から非難必至であるといった以前に、おそらく本人自身が恥ずかしくてとても再刊できないにちがいないと思われる、こんな本までこの時代に生きた著者の作品だからしかたがないと弁護してしまうのはどうかんがえてもひいきの引き倒しのたぐいだろう。偉い人の書いた本はすべて立派だと思っちゃいけないとおもうのですがね。ヘーゲルの先述の「精神現象学序説」は人間の意識のあり方を理性の力に導かれ、限界を認識することで限界の外に広がるものを認識し、さらにその広がる外部を集約することで、さらなる外部を認識するといった作業の繰り返しで、同心円的に認識視野を拡大し、究極的に神の視座を獲得することができるといった認識のメカニズムについて語った書でたしかあったはずである。記憶のあやまりはあるかもしれないけれど、たしか大きな異論はあるものの、基本的なメカニズムとしてかなり興奮摂取したはずである。要はそこで展開した認識のメカニズムを世界を律する構成原理と思い込み、馬鹿のひとつ覚えで歴史の発展図式にも適用しようとした稚戯に等しい著作物で、一定の領域では天才とも思える人間が、ある領域を越えてしまうと想像力がついていけずに稚拙極まる作品に急激にレベルダウンするという、じつは意外とよくある話のひとつなんだろうと思う。

 一定の密閉された領域の中での人間関係とそのなかで派生する行為に対する洞察において、オースン・スコット・カードというのはやはり非凡な作家であると思う。ほとんど反SF思想を体現している書物といって過言ではない『死者の代弁者』にしてもイデオロギー的に全否定しながらも小説の泣かせには抵抗できなかったし、よき羊飼いたるにはどうあるべきかと真摯に精進する一方で、自分が羊であるという意識はテンから持ち合わせず、主人公がよき指導者となるために嬉々として羊たちを痛めつける感性に人間的に許せないものを強烈に感じながら、完全に嫌いきれないもどかしさを感じつづけた作家だった。
 その種の背反感情は『死者の代弁者』「短編版消えた子どもたち」のころがピークで、その後『長編版消えた子どもたち』や『エンダーズ・シャドウ』といった近作には、昔のようには羊飼い意識が感じられないようになって、わりとすんなり楽しめる感じになってきた。
 そんなこともあって、期待して読んだ『エンダーの子どもたち』なのだけど、一定の密閉された領域から外に出てしまったとき、カードというのは想像力がとたんに貧相になるようだ。『ゼノサイド』のときからそんな気配はあった。カ巣女王もペケニーノも種族として取り扱うことができなくて、たんなる一個人、もっといえば一アメリカ人としてしか書けていない。なんか話の密度がとんでもなく雑駁になって、そういえば『反逆の星』というバカ小説も似たような嫌いがあった。密度の濃い小説の場合、いらだちながらも小説全体の力でこちらがねじふせられるのだけど、全体が雑駁になる分、カードの個性のへんな部分がそのままもろに、こいつへん!と強気に言い切れる。ピーターとヴァレンタインとエンダーの3組のカップルを作って、そのうちのひとりだけを生き残らせるカードの人間性というやつは、年食って直ってきたかと思っていたけどやっぱりへんなままだった。
 じつはヘーゲル『歴史哲学講義』とカード『エンダーの子どもたち』がぼくのなかで共鳴している。どっちの本も間抜けぶりがよく似ている。


THATTA 155号へ戻る

トップページへ戻る