内 輪 第121回
大野万紀
神戸大SF研のOBで、ディレーニイ『アプターの宝石』(サンリオ)の訳者、下浦康邦氏が、9月1日、42歳の若さで急逝されました。
氏は学生時代から、SF、数学、哲学などに深い造詣をもち、理論派として知られておりました。某大企業に就職後も元気に活躍しておられるとのことで、最近では和算の研究などをしておられたようです。そのうちまたSFの方にも顔を出してもらえるのではないかと、期待していたところでした。
このたびのことは、まことに残念という他ありません。氏のご冥福を心からお祈りいたします。
オリンピックも始まり、にぎやかなことです。何だかんだいいながら、ぼくもけっこう一生懸命見ている口です。開会式で、びっくり合体メカだった聖火台が、全世界の人が注視する中、メカのトラブルでしばらくフリーズしてしまった時は、裏で必死になっているだろう技術者のことを思って、本当にドキドキしました。実は(スケールは遙かに小さいが)同じような経験があるもので。まあ、無事に再起動できたようで、良かった良かった。
それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『原初の光』 ピーター・アクロイド (新潮社)
イギリスはドーセットの田舎で発見された、青銅器時代の古墳。発掘に従事する考古学者と、障害を持つその妻。ロンドンから来た、環境庁のエキセントリックな女性役人と、その同性愛の愛人。自らのルーツを探りにやってきた老芸人とその妻。アルデバランを観測している天文学者。そして全ての要となる、農場主ミント一家。こういった人々が繰り広げる、複雑で怪奇な人間関係の物語。そこに、古代からつながる人々の意識、太古の宇宙論と現代の天文学者の照応といった形而上学的・哲学的なテーマがかぶさってくる。ロバート・ホールドストックなら、半村良なら、諸星大二郎なら、同じテーマで全く読後感の異なるエンターテインメント作品が書けただろう。しかし、ピーター・アクロイドはストーリイを語るのに重点を置かない。むしろ、登場人物たちの生々しい関係性について、繰り返し繰り返し、手を変え品を変えて語ろうとする。とっても文学的。謎めいた田舎者のミント一家とルーツ探しの老芸人(この造形はすばらしい)に関する部分をのぞくと、とっても退屈。考古学的な部分も宇宙論的な部分も、まったく文学的であって、科学的にどうこうというものではない。にもかかわらず、最終的に神話的な宇宙が立ち現れる結末は、美しく、ある種のSFと共通するセンス・オブ・ワンダーがある。いやあ、本当のところ、ホールドストックあたりが書けば、この神話性とセンス・オブ・ワンダーを生かしたまま、娯楽小説としても楽しめる作品になったんじゃないかと想像させるような作品だった。やっぱ、文学は疲れるわ。
『DZ デイーズィー』 小笠原慧 (角川書店)
横溝正史賞受賞作品だが、完全なSF。人類進化テーマSFで、『ダーウィンの使者』と同じテーマだが、こっちの方が面白い。ミステリ的な部分はもうひとつ。あと、ヒロインに関する重大な伏線があっさりしすぎで(これは謎解きというわけではないのだから、もっとはっきり書いておくべきだったのでは)、結末のいかにもSFな味わいがわかりにくくなっている。ヒロインの心の動きも、もうひとつわかりにくい点だ。そういう欠点はあるものの、新人類になってしまった者の孤独、悲しさがクールに描かれており、障害を持つ子たちの施設が舞台になっていることも相まって、進化の非情さ、大きな物語と小さな物語のぶつかり合いが、読者の心を打つ。
『影が行く』 中村融編 (創元SF文庫)
オリジナル編集による海外ホラーSFアンソロジー。はじめの方の何編かは、さすがに古めかしくてこれはどうかと思ったが、途中からがぜん面白くなる。まずはキース・ロバーツ「ボールターのカナリア」。軽い作品なのだが、面白い。クラークの「白鹿亭奇譚」などと同様、伝統的なパブのほら話SFという体裁で、こういうほら話、ばか話という形式がいかにSFとなじむものか、あらためて考えさせられる。ディテールのマニアックさもロバーツらしい。キャンベルの「影が行く」。発表年代は古いのだが、今でも十分ドキドキさせられる。読み返して気がついたのは、大戦直前に発表された作品らしく、人々が生と死に関して、覚悟ができているというか、とてもリアルな認識を持っているということだ。ディック「探検隊帰る」も、デーモン・ナイト「仮面(マスク)」も傑作。しかし、これらは確かにホラーSFともいえるが、いかにもストレートなSFだと思う。ベスター「ごきげん目盛り」、オールディス「唾の樹」も同様。ベスターのアイデアは少し古くさくなっているかも知れないが、このスタイルはちっとも古びていない。オールディスのビクトリア朝SFは、ウエルズへのオマージュという面もあるが、宇宙船に乗ってきたものたち(怪物?)に思いを巡らせば、異様なファースト・コンタクトものという見方ができるし、豊饒に変貌した田園の姿に「地球の長い午後」の影を見たり、バイオSFのテーマも見えてくる。舞台が19世紀だから、その辺りの説明は十分にされないのだが、そういう読み方も面白いと思う。
『レックス・ムンディ』 荒俣宏 (集英社文庫)
南フランスの古代遺跡。怪しげな宗教団体。ブラック・ジャックみたいな一匹狼の考古学者。ヨーロッパの巨石文明とキリスト教との関係。世界の王(あるいは悪魔)たるレックス・ムンディの復活。そしてプッサンの名画との関係は……。まさに伝奇小説の王道という感じだし、著者の蘊蓄が爆発で、そういう意味ではとても面白く読めた。ただし、『帝都物語』でもそうだったが、歴史や宗教、オカルト方面の本当らしさ、もっともらしさと、科学面のもっともらしさとの間に著しい隔たりがあり(著者が科学を知らないとは思えないので、これはオカルト関係とレベルを合わせようとした結果なのだろうか……しかし、これで果たしてレベルというか、インピーダンスが合うのだろうか)、特に本書の場合、伝奇小説に加えて、堂々たるバイオSFという側面もあるので、よけいに困ってしまう。また、世界の謎解きはぞくぞくするほど面白いのに、物語がまったくいいかげんである。そもそも主人公はいったい何をしているのだろうか? まともな人間じゃないからかまわないのか。宗教団体も銃撃戦も学会のライバルも、実はどうでもいいのだろう。プッサンの名画にまつわる一つの壮大な夢想ないしは仮説を、もっとストレートに読みたかった気がする。
『震える血』 ジェフ・ゲルブ&ロン・フレンド編
『喘ぐ血』 ジェフ・ゲルブ&マイクル・ギャレット編
『囁く血』 ジェフ・ゲルブ&マイクル・ギャレット編 (祥伝社文庫)
エロティック・ホラー・アンソロジー三冊を一気読み。いずれも原書の全訳ではないので、これは尾之上浩司編というべきかも知れない。しかし尾之上さんって物知りやねえ(ニヤニヤ)。それはともかく、読んで面白かったのはやっぱり下品でおバカなエログロナンセンスというやつ。ロバート・マキャモンの「魔羅」(『震える血』)、リチャード・レイモン「浴槽」(『喘ぐ血』)、グレアム・ワトキンス「妖女の深情け」、ロン・ディー「おかまのシンデレラ」(『囁く血』)などだ。特にレイモンには悶絶。それから、SFや映画などマニアの世界をからめたオタク系ポルノとでもいうタイプ。ドン・ダマッサ「改竄」、カール・エドワード・ワグナー「淫夢の女」(『喘ぐ血』)、ドン・ダマッサ「淫夢の男」、ジェフ・ゲルブ「ビデオ収集家」(『囁く血』)などだ。SMっぽいのが多いのも特徴か。また、もっとストレートにSFやファンタジーを扱ったものもある。ハーラン・エリスン「跫音」、デイヴィッド・J・ショウ「赤い光」(『震える血』)、レイ・ガートン「虚飾の肖像」、ナンシー・コリンズ「魔性の恋人」、ジョン・シャーリイ「真珠姫」(『喘ぐ血』)、ナンシー・ホールダー「人魚の歌が聞こえる」、デイヴィッド・J・ショウ「心の在処」、グレアム・マスタートン「おもちゃ」、グラント・モリスン「情欲空間の囚」(『囁く血』)など。この中で特筆すべきは「情欲空間の囚」だ。小松左京の「愛の空間」みたいな存在と戦うオカルト探偵という趣向だが、この探偵がかっこいいのだ。ゲイリー・ブランナー「イーディス伯母の秘術」(『震える血』)やマシュー・コステロ「闇の中」(『囁く血』)は昔懐かしい艶笑譚といった感じか。単なるハード・ポルノとしか思えない作品も含まれてはいるが、ファンタジーやSFに近い、ひねった小説が多く、読んでみて損はないと思う。エッチでもてなしのいいものばかりではなく、とてももてなしの悪い作品も含まれているので、その点は要注意。
『ぼくらは虚空に夜を視る』 上遠野浩平 (徳間デュアル文庫)
この人の作品は、ブギーポップシリーズを途中まで読んで、才能のある作家には違いないが、ぼくの趣味ではない、と決めつけていた。ぼくと同年代の水鏡子は高く評価しているので、別に歳のせいだけではないと思う。あらゆるものが少年少女のインナースペースに収束していくような作風が、ぼくの趣味に合わないというだけだ。そういう意味では、本書はその究極のような作品なのだが……。水鏡子が「高校生活を送るピンライターたちの話」だといったので読んでみる気になった。いうまでもなく、ピンライターというのはコードウェイナー・スミスの「鼠と竜のゲーム」に出てくる宇宙空間の竜と戦う戦士たちのことである。本書では、ごく日常的な高校生活を送る少年が、実はこの世界が現実ではなく、恒星間を渡る移民船で冬眠している数億の人々が紡ぐ一種の夢の世界であり、彼らは超未来の宇宙で移民船を護るために戦っている戦士たちなのだと知らされる。となると、この世界のステレオタイプな高校生キャラクターたちの描写も、そういうものだと思えてくるのだ。これまでの作者の作品群も、この枠組みの中で解釈できるわけで、ちょっとやばい感じもある。まあそれはともかくとしても、こういう壮大な設定の中で、息もつかせぬ宇宙戦闘シーンが連続するにもかかわらず、宇宙の広がりや神秘性、大きな物語と日常性との間に立ち現れる驚きといった要素が、きれいさっぱりと抜け落ちているというのはどういうことだろうか。すべては淡々と、主人公たちのキャラクターの内面に、個人的な物語へと畳み込まれ、縮退して行く。世界や人類の運命を背負いながらも、無感動な主人公たち。それが悪いというのじゃないが、もどかしい。しかし、作者は最後の最後で、主人公に星でいっぱいの空を見つめさせる。虚空ではない空を。