みだれめも 第118回
水鏡子
SFと構造的に近しい小説というのは業界内幕小説ではないかと思っている。物語の進展に伴い、登場人物の属する社会(世界)像が立ち上がり、登場人物のドラマに平行して浮かびあがってくる世界の仕組みを味わうところに読書の醍醐味があるというのが。
では、同じことをSFと近親関係にあると考えられるメタフィクションに関して考えるとどうなるか。(なぜSFとメタフィクションが近親関係にあるかはめんどくさいからこの際はしょる)
楽屋落ち小説というものがあたらないかと思っている。本来明示的には著者から独立して成立しているはずである小説固有の幻想世界が、著者を含めた舞台裏を開陳されることで、幻想世界固有の完結したリアリティを否定され虚構性をあらわにされる。そして舞台裏を含めたより広大な世界設定の中でのリアリティへと再規定される。メタフィクションの説明みたいだけど、要するに楽屋落ちってこういうことでしょ。おんなじじゃん。
さて。京極夏彦『どすこい(仮)』である。
ファンジンに載っかったものであれば、まずまちがいなく大絶賛、けれどもこういうものが商業出版されて、しかも14万部も売れるというのは、これはやっぱり〈正しい〉在り方とは思えない。これがぼくの評価である。
面白くなかったといえば嘘になる。才気も走っていないわけではない。
でも、くだらない。ほんっとうにくだらない。しょもない楽屋落ち小説である。こんなものをとりあげて、メタフィクションなんてほめあげる愚は頼むからやめてもらいたい。
才気は見えるといったけど京極夏彦に期待する才というのはこんな小賢しさではなかった。『塗仏の宴』以降、むしろ悪い意味での賢しらさが、ほとんどすべての作品で前面に出てきて、結果、小説の厚みを消している。読んでて感じる気分というのは、かっての豊穣さと比較して、まるで枯れ野原を歩いていくみたいである。
ロバート・アスプリン、マジカルランド第8弾『魔物をたずねて超次元!』は、前回の不調を吹き飛ばす快調篇。もともと現代都市社会を舞台にした魔法ものには点が甘くなるきらいがあるのだけれど、今後もこのレベルで楽しめたらと思う。
前田珠子『魂が、引きよせる』〈破妖の剣・外伝5〉
前田珠子の本というのはこのシリーズ以外読まなくなった。昔書いたように安定した持ち味の作家だけれど、経験を積んでじわりじわりと技術を蓄積させてじんわりレベルアップしている感がある。全作品を読まないまでも揃えておきたいと思うとこまでいかないあたりがこの作家に対するぼくのひっかかりの現在地点であるのだけれど、同時に、氷室冴子以外で唯一新刊書店で購入するコバルト本でもある。本書は、短篇2つのセットで、表題作は充分長篇になるネタを軽くしあげたかたち。若干ものたりないところもあるけど、まあ手慣れた安心して楽しめるできばえ。
夢枕獏『キマイラ群狼変』
そんな前田珠子に比べると、新書本と文庫本のほとんどを相変わらず買い続け、しかも驚くべきことに、そのほとんどを読んでいる夢枕獏というのは、ぼくにとってはるかに重い存在である。なかでも〈キマイラ〉は、作者のすべてがそそがれる作家活動の脊骨であるとずっと確信してきたのだけど、ここ数冊、そう信じるのがつらくなってきている。
これだけ遅々とした歩みの中で、前田光世に頁を割く必要が〈飢狼伝〉ならともかく〈キマイラ〉にあるとは思えない。ぼくの中では〈キマイラ〉は〈マジカルランド〉より〈破妖の剣〉よりはるかに格上の存在のはずだけど、今回出た3冊の中で頁を開くわくわく感にいちばん欠けていたのは本書だった。
出版不況の荒波の中で、売れない本の代名詞扱いされてきたSFの復刊本が予想を超える健闘を見せている。ホラー、ヤングアダルトの枠組みのなかでもSFの勢力的凝集の動きは昨年来やけに目立ってきた。過去の遺産とジャンル横断的に芽吹いてきたSF的資質の蓄積を背景に、SFというジャンルがジャンルとして反転攻勢をかける時期が訪れたように見受けられる。
SFM増刊『SFが読みたい』は臆面もなく『このミステリがすごい!』を連想させる装丁で、二番煎じと馬鹿にされるかもしれないけれど、ミステリにおける『このミステリがすごい!』の置かれた位置をSFにおいて踏襲するのだというメッセージ性を読者及び書店に主張しているものとして、むしろ積極的に評価したい。本書とほとんど同時に〈日本SF新人賞〉キャンペーン誌『SFJapan』が刊行されたことも、ジャンル内協調プレゼンテーションとして喜ばしいできごとだった。こうした仕掛けが出版メディアの注目を得て、再喧伝されればそれに越したことはないけれど、一読者にとっても、これら2冊の誌面にまとめられたここ一〇年の出版データは非常に貴重な資料である。マガジン編集部においては、本誌の売れ行きの如何にかかわらず、是非来年も刊行を続けてほしい。
SFベストのコメントにつきましては、なにより菊地誠先生の日本SFコメントにひれふさせていただきます。大森望や三村美衣の座談会発言の卑怯者ぶりが目立ったぶんだけ、志操の高さが美しい。ぼくも『カムナビ』と『チグリス』についてもっとふれるべきだったと反省しております。(だけど、コメントってたしかそれぞれ200字以内ってなってなかったっけ。なんでみんなあんなに長いのだろう)
それにしても、座談会の香山『カムナビ』擁護発言には驚く。「人間が書けていない」という批判に本格はトリックやロジックで評価すべきだ云々の、「人間が書けていない」というのはこういうレベルの問題だったのですか。本格ミステリというのはこういうレベルの小説が、それほどあたりまえに高い評価を得ているということだったのか。「マクロレベルの物語」あるいは「メカニカルな構造」を際立たせていく弱み(同時に強みでもある)を指して外部から指摘される批判というのがいわゆる「人間が書けていない」云々の文言であるはずであり、これをもって、読んでて頭を抱える言動や文章が正当化されたのでは、本来的な意味あいでこうした批判を甘受してきた名作群が浮かばれない。この理屈だと『虚無への供物』と『カムナビ』は同じレベルの本になる。ロジックで評価していくという言葉の中には、少なくとも登場人物の言動も小説の構造も最低レベルの論理性を持っていることを含めての話だとばかり思っていた。少なくともSFについてもなされた「人間が書けていない」云々の言については、ここまで安直な居直りがなされたことは一度としてなかったように記憶する。