みだれめも 第117回

水鏡子


○SFマガジン3月号は〈ハイペリオン〉四部作完結記念特集。
 SFブックスコープ拡大版でぺーじの上下に並んだぼくと鏡さんのコメントが、示し合せたように対照的になったのには、けっこううれしかった。外伝「ヘリックスの孤児」は、〈ハイペリオン〉の移り香で、まあ、きもちよく読めるけれども、基本的には愚作でしょう。ただ、前回否定した口の根も乾かないのにこういうのもなんだけれど、ここにははっきりヴァンスがいる。導入部がコードウェイナー・スミスで、本編は腰の砕けた「龍を駆る種族」といったところ。
 『エンディミオンの覚醒』については、まだ少し言い残したことがあった気がしたのだけれど、とても痛い文章にぶつかって、見える風景が少し変わって、ちょっと何も言えなくなってしまっています。しばらく封印します。

○『あこがれの星をめざして』(ラッセル・ホーバン 評論社 1500円 絵本)
 ご贔屓ラッセル・ホーバンの比較的字の多い絵本である。絵本としての版権は99年のものだけど、文章の方は72年の著作になっている。
 「嵐の去った海辺にウミドリのヒナがうちあげられた。ヒナはその海岸で暮らし始めるが、海への恐怖にうちかてず、海にもぐることも飛び立つこともできない。友だちになったカニも、心の悩みをかかえていた…」
 扉返しにこうあらすじ紹介がされていて、けれどもやがてウミドリは、と、題名からも予想がつく、まあ、そういう話である。そういう話であるけれど、やっぱりホーバンというひとはなんかへん。読んで余韻に残るのは、ウミドリの予定調和の話の横で、ウミドリと仲良くなって、結局またひとりぼっちにされてしまう可哀そうなカニさんの話。カニの生きざまを呈示する、肯定でも否定でもない優しい目線が、いかにもホーバン。10分弱で読めます。本屋さんでの立ち読みをお勧め。

○『ドガ』(キース・ロバーツ 西村書店 2000円 画集)
 えー、ドガの画集です。〈踊り子〉のドガです。解説がキース・ロバーツ。『パヴァーヌ』のロバーツとたぶん同一人物。それだけの理由でで読んだわけで、もともと絵心にうとい人間だから、ああ、そうですか、の印象しかない。だいたいからして、『パヴァーヌ』って、じつはぼくにはもうひとつピンときてないのである。それでもSFゲットーあがりの人間としては、こういう本が訳されてるとわかると、一度くらい目を通しておきたくなる。読んだよと人に言ってみたくなる。不純な動機であります。ドガというのは踊り子しか知らなかったのだけど、他の有名な主題に競馬があったというのを、この本を読んで初めて知った。
 〈アート・ライブラリー〉というシリーズですが、キース・ロバーツの解説本はこの『ドガ』以外に『ブリューゲル』が訳されているようです。

○『BH85』(森青花 新潮社 1300円)
 99年度ファンタジイノベル大賞優秀作。
 毛生え薬が原因で地球が滅びる話と聞いて、昔ファンジンで読んだ「陰毛録」というホモSFを思いだした。某実名SF作家の陰毛がどんどん伸びて地球を覆いつくし、やがて太陽系に広がって、太陽に届いて、地球が陰毛ごと丸焼きになる話だった…と思う。タイトルは筒井康隆「陰脳録」からとってたけれど、某実名SF作家は筒井康隆ではない。念の為。
 そこまでとんでもない話ではなくて、もっとまっとうなSF。諸星大二郎の「生物都市」みたいな話といってしまうとネタばらしになるけれど、解説でネタがばらされていることに、ぼくとしてはかなり怒っているところである後述の『模造世界』とちがって、ばらすことでダメージが残るタイプの小説ではない。ところどころスベる部分もないではないが、基本的にかけあい漫才を楽しみながら意外と本格SFのディスカッションが展開される。ファンタジイノベル大賞候補作というのが信じられないくらい、肩の力が抜けた、しかも腰のあるSFである。
 気楽に読めて、読み終えて充足感が残る。お勧め。
 それにしても吾妻ひでおの絵は強い。SFM掲載時の初期ティプトリーの時もそうだったのだけど、小説世界に漂う空気が完全に吾妻ひでおに支配される。ここまでの作品支配力は横山えいじも水玉蛍之丞も持っていない。作者にとっていいか悪いかは別にして、ぼくとしては歓迎である。

○『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュノス』(宇月原晴明 新潮社 1600円)
 で、こちらの方が99年度ファンタジイノベル大賞授賞作。いかにも選者好みの衒学蘊蓄満載ノベル。秀吉とか門太とか魅力的な登場人物は何人かいるけれど、蘊蓄の縒り合わせ方はいかにも恣意的、基本的には虚仮おどし。ヘリオガルバス、信長、アンドロギュノス説はよしとして、そこで練られた論旨を延長していけば、現代のアンドロギュノスはヒトラーにならなければならないと思うし、剣は原子爆弾に変化しなければならないように思える。ペケです。

○『SF万国博覧会』(北原尚彦 青弓社 1600円)
 SFマガジン連載コラム〈空想科学小説叢書列伝〉と〈バベルの搭から世界を眺めて〉を1冊の本にまとめたもの。わりと安直な企画のように見えるかもしれないけれど、とりわけ前者の〈空想科学小説叢書列伝〉の連載がはじまったとき、「この連載は、ぼくがやりたかった」とうらやましがる古本極道がやたらいたのである。ぼくもまあ、そのひとりですな。
 内容的には、まあ、とりあえず、ぼくでも知ってる範囲のことを、まちがいなくきちんとバランスよく書いているといったところで、SF古本ファンには値打ちものの中級者向けガイド本。ぼくあたりには心地いいノスタルジー本といったところか。
 評価としては、改稿、書き下ろしをして、第1章だけで本を1冊作ってほしかったというのが正直なところ。たとえば、早川の本にしても、SF文庫以外の文庫に入っているSFであるとか、早川ノベルズでしか出ていない本とか、岩波・角川・新潮・文春その他の文庫本の中の該当作とか、第2部のなかで個別にとりあげられているものもあるけれど、1冊このスタイルで通してあれば、迫力はもっとあがったのにと惜しまれる。

○『終わりなき平和』(ジョー・ホールドマン 創元 920円)
 うまいなあ。ホールドマンってこんなにうまかったっけ。と感心しながら読んでいたのが前半。終末教団がでばってきて、マンガになるのが後半。あちらで80年代後半あたりに刊行されたSFには、やたら中南米問題とホームレスが目についてうんざりしたのだけれど、最近とんと姿をみなくなってきた。そのかわりに猛威を奮いだしたのが、権力欲よりむしろ金銭欲の亡者といった捉らえられ方の強かったTV伝道師を経て、世界を終わらせようとする終末教団の跳梁跋扈で、ここんところ読んだだけでも本書以外に『宇宙消失』『精霊がいっぱい』あたりがすぐ思いだされる。いいかげんうざったい。
 アンチ・キリスト・ネタの本というのはそれはそれでひとつのサブジャンルであるから、面白い面白くないは別にして、まあそういうオチの話として許せるのだけど、終末教団って、その種のアイデア的存在として出てくるわけじゃあないんだよね。単に物語のストーリー進行を邪魔したり、山や谷をつくるためだけの敵対的存在。セイバーヘーゲンの〈バーサーカー〉とかベンフォードの〈マシン文明〉とか、『エスパイ』や『009』や『幻魔』みたいな純粋悪、純粋破壊意志の風格を備えた超存在になかなか行きつかない、馬鹿な指導者と馬鹿な末端がバタバタするのでうんざりする。もしかしたら教団の方が正しいのではと思わせるほど、悪側のキャラをもっとかっこよくしたら、対立に緊張感が生み出されて、もっと面白くなるのだけどね。けっこうそのあたりの許容性を鍛えられている日本のヤングアダルトを目にしてきているだけに、こういう馬鹿でみっともない悪人を出されると評価が急激に低くなる。

○『模造世界』(ダニエル・F・ガロイ 創元 580円)
 良質の、いかにも50年代SFの典型、といった品の良さがある。問題は、この本の刊行年が1964年であるということ。その奥床しさを好意的にうけとめるか、古臭いと切り捨てるかが本書の評価の分かれ目になる。
 たったふたつの謎だけで物語は構成されている。世界はいったいどうなってしまったのかというSFの謎。敵はだれかというミステリの謎。
 スレたSFファンからすると、自明ともいえるほとんど陳腐に近いアイデアをガロイは読者を撹乱し、ヒントを散りばめ、周到に伏線をはりめぐらせて、懸命に収束点をめざす。その誠実な物語作りへの努力は、まさにその努力する姿勢によって、いまさらながらのアイデアをきもちよく読ませるものにしあげている。
 たしかに、映画化された作品であれば、そのSFとしての謎というのは大半の読者にとって読む前から予備知識としてばれてしまっている可能性は高いかもしれない。
 けれども、だからといって、作者が作品中で出き得るかぎり隠し通そうと、技術のかぎりを尽くしているものを、解説であっけらかんとばらしてしまっていいというものではないだろう。どうだびっくりしただろうと作者が誇らしげに感じるつもりと思われる謎ときシーンで、胸張る作者が可哀そうになるようなそんな事態を招くようでは、作者にとっても読者にとっても不幸としかいいようがない。先述したように、たったふたつの謎だけで成立している物語であるだけに。

○『とらわれびと』(浦賀和弘 講談社 940円)
○『百器徒然袋 雨』(京極夏彦 講談社 1150円)
 浦賀本は、『頭蓋骨の楽園』、本書と歪んできている。元からこういう方向を目指していたのかどうか。あんまり好きな変わり方ではない。ただ、エヴァンゲリオン影響下のスタージョンみたいな作風、という評価はまだ有効かもしれない。
 京極本は榎木津主人公の連作本。自動的に本伝のセルフ・パロディの性格が生じる。  セルフ・パロディはやばいというのがぼくの昔からの持論である。本来の作品に比べ、作者・読者間の共通了解域が拡大し、それに頼って意志疎通の努力が安直化する。作者・読者で構成する空間が閉鎖的になる。主人公のキャラのちがう側面を提出しようとするうちに、キャラの個性がぶれてくる。そんなこんなでセルフ・パロディでない小説を書くときの読者への意志疎通のための前提があいまいになってしまった例というのを、これまで何人も見てきた。不安が裏切られることを希望しつつ、次作を待つ。


THATTA 142号へ戻る

トップページへ戻る