みだれめも 第116回

水鏡子


 大幅に遅れました。ごめんなさい。

 SFマガジン2月号の原稿を書きながら、いろいろ思いついたことが出てきて、そのあたりのことを書き散らそうと思ってたのだけど、咀嚼していると、どうもその種の意見の後ろのとこに、同時期平行して読んでいた『エンディミオンの覚醒』が横たわっているらしいのに気がついた。
 長いこと、70年代前半の初期ティプトリーで収束していたぼくのなかでの現代アメリカSFの系譜が、『エンディミオン』と『覚醒』で、やっと新しい就職先じゃないや収束先を見つけた気分なのである。『ハイペリオン』でなくあくまで『エンディミオン』の方。
 で、こっちについてもいろんなことがちらちらして、それが60年代についての思いつきとぐっちゃぐちゃにからまって、それならそれを順不同で書き出したらまあいいのだけれど、そこにSFマガジン3月号の『ハイペリオン特集』へのコメントの仕事を戴いたものだから、なにをそこに書いたらいいか決めかねている間、抜くネタを決めかねたザッタ原稿がずるずる遅れた次第。
 まあ、そんな理由づけに頼ってさぼっていたというのがほんとのところでしょう。

 とりあえず、60年代と『エンディミオン』について思いついた意見というのを順不同でだらだら並べていくことにする。

●前から書いてきたことに、ダン・シモンズがSFの外の人か内の人か読み切れないということがあった。『殺戮のチェスゲーム』の冒険アクション、スティーヴン・キングを連想する『サマー・オブ・ナイト』、文学の香り高い『愛死』とそれぞれに同じ作者が書けるものと思えないくらい想定される対象読者層が異なるうえに、SFのくせ、みたいなものが感じられなかったためである。だから、SFの粋を集めた『ハイペリオン』を読みながらも、この作者がほんとうにSFの人かどうかという点で疑心暗鬼にとらわれていた。
 4冊読み終えた今は、そうした疑念についてはふっきれた。こりゃ、ガチガチのSFマニアですわ。ここがシモンズの中心点。ほかの本が読者に合わせた仮の顔だと、自信をもって断言しよう。
 ルーツは60年代宇宙SF。マガジンとかでは、挑発的にイフ・ギャラクシイと言ってるけれど、じつのところ、もう少し高尚。ニーヴンは少し混ざっているかもしれないけれど、ローマーやセイバーヘーゲンの安っぽさや、ラインスター、ジャック・ウィリアムスン、E・E・スミスといったロートルのどんくささとも無縁だ。
 とりあえずジャック・ヴァンスという名前が訳者、作者双方から出てくるのだけど、ぼくとしてはあんまりヴァンスは連想しない。執拗な異世界描写や奇抜な移動システムなど言われてみるとヴァンスの本で見聞きした感じのものは少なくないけど、ヴァンスの肌触りって、もっとザラザラしていてほこりっぽい。それにあらゆる技法に通じたシモンズの、ある意味でいちばんセンスが平凡なのがユーモア感覚ではないかと思う。ヴァンスの屈折したユーモア・センスをベースにした発想とは、やっぱり少し資質がちがうのではないか。
 シモンズの資質の核は、バカなディレイニー、利口なゼラズニイといったあたりでないかと思う。『ハイペリオン』2冊に続いて『エンディミオン』を読みだしたとき、思い起こしたのは以前にも書いたとおり「エンパイア・スター」だった。ただし作品の知的レベルはゼラズニイ。シュライクにはエリスンが見えるし、フランク・ハーバートもまちがいなくいる。ティプトリーもいる。大野万紀はコードウェイナー・スミスを主張している。
 これはあくまで、資質を構成しているものの話で、オマージュとして取り込まれているもののことではないので念のため。「メデューサ」がいるからといってクラークがいるとは言わないからね。サイバーパンクだって大量にとりこまれているけれど、シモンズの資質云々といったこととは基本的に無関係だと思っている。
 シモンズの核はSFにあり、シモンズのSFは60年代である。50年代とは切れている。(でも『夏への扉』はあるかもしれない) 60年代の核を熟成させ、ティプトリーを経由して、サイバーパンク等を取り込みながら辿りついたアメリカSFの黄金の道の現時点での収束点。それが『エンディミオンの覚醒』であるというのが、客観的判断力を欠いた今のぼくの意見であって、そんな本がローカス賞しか受け取れない、それどころか、シリーズ4冊に対して一度もネビュラ賞を授与しないアメリカSF界というのはちょっとおかしいんではないかい、といったような思いが、遠因としての60年代NW批判といった方向に出てきたようなのである。

●大野万紀がコードウェイナー・スミスを持ちだしてくる直接的な原因は、もちろん「クラウンタウンの死婦人」なのだけど、そのへんは、ぼくが「エンパイア・スター」を言っているのとほとんど同じレベルかもしれない。要はアイネイアーにド・ジョーンをだぶらせたか、サン・セヴェリナを重ねたかというだけのことかもしれない。
 そういえば昔学生時代、万紀や米村と、3大ジャンヌ・ダルクSFとかいって、「エンパイア・スター」と「クラウンタウンの死婦人」ともうひとつなんかを並べて遊んだことがあったような気がするのだけど、あとのひとつはなんだったのだろう。
 で、思いだそうとしていたら、あのころまだ存在しなかったべつの話がみつかった。
 前号でちょっと触れた、空を飛ぶシーンではじまって、ボーイ・ミーツ・ガールで、 自然との交歓で、世界を救う少女の死と再生の物語。
 うーむ。一緒じゃん。
 そうか、『エンデイミオン』は『ナウシカ』だったのか。

●まあ、そんなこんなで「エンパイア・スター」を読み返した。『エンディミオン』のベースが「エンパイア・スター」と主張するのはちょっと難しいかもしれない。

●『エンディミオン』というのは、ワイド・スクリーン・バロックの完成型かもしれない。この調和のとれた美しい世界がなんでワイド・スクリーン・バロックかという意見が当然出てくるだろうけど、ワイド・スクリーン・バロックと呼ばれる作品だって、はなから破綻と混乱をめざしたわけではないと思うのだ。(破綻や混乱を効果として積極的に評価されてから出現したものは別にして) 盛りこまれたものをすべてきれゐに盛りつける技量に欠けてて、それでもそれだけのものを盛りこみたいという意志を優先させた結果としての破綻であり混乱だったはずである。それらをきちんと盛りつける技量の持ち主であるなら、とても美しくわかりやすい宇宙曼陀羅が描きあげられたはずのものだったのではないか。ちょうど『エンディミオン』と『覚醒』のように。

●『ハイペリオン』2冊は『非Aの世界』である。『エンディミオン』2冊は『非Aの傀儡』である。ぼくは『非Aの世界』より『非Aの傀儡』の方が好きだ。ゆえに『ハイペリオン』より『エンディミオン』の方が好きだ。

●50年代SF、60年代SFというのは、もしかすると旧フューチュリアン・グループの路線闘争だったのかもしれない。右傾硬直化はしていても出版エスタブリッシュメントとしてはやはり磐石であったアナログ・キャンベル体制への批判的スタンスでSF出版界に食い込んでいったフューチュリアンであるわけだけど、エース・ブックスの親玉になったウォルハイムとバランタイン、ギャラクシイの編集権に食い込んだフレデリック・ポールにくらべ、そこまでの権力基盤を確保することのできなかったジュディス・メリルとデーモン・ナイトが自己主張を過激化させていった結果が、片や周辺領域に拡大していく年刊傑作選を経由して、イギリスNWのスポークスウーマンとしてSF界を揺さぶることとなり、片やオービットでオリジナル・アンソロジーを新しいメディアとして定着させたということではないか。60年代の後半はエリスンをはじめシルバーバーグ、マルツバーグといったユダヤ系の編集者による革新系のアンソロジーが増えてくる。ロジャー・エルウッドやテリイ・カーもユダヤ系じゃなかったっけ。自信ないけど。ああ、それにグリンバーグを忘れちゃいけない。ユダヤ系作家と革新系(非アナログ系)SFとの親和性については、民族性なのか、それとも、ユダヤ系資本のもと初期にユダヤ系作家(アシモフ、テンなど)が参集した(という話を聞いた、裏はとっていない)ギャラクシイ誌が革新系の砦だったせいなのかどちらだろう。
 なんてことを書いているけど、あちらの本を読みながら、あらかじめ解説とかを読んでないかぎり、この作者は何系の人かと感触でわかったためしはない。ネイティブの人たちってたぶんある程度わかるんでしょうねえ。

●50年代SFが嫌われたのは少年が書かれなくなったせいではなかったのだろうか。
未来社会の物語には、未来や制度に果敢に向かっていく少年よりも、ミステリ同様くたびれた中年の私立探偵が似つかわしい。逆に宇宙にはばたく物語にはおじさんは体が重すぎる。ディレイニイもエリスンも、もちろんゼラズニイも、みんな少年たちの物語であり、それが支持されたのであり、やっぱりおじさんたちがうろうろしていたイギリスNWとは本質がちがっていたのではないか。
 くたびれている人で埋まっていたサイバーパンクから、少年少女のラブ・ストーリイでしかない『エンデイミオン』へ、振り子が振れてくれるだろうか。

●こういうがきっぽさへの回帰の主張も、右傾化とは異なる保守反動思想である。


THATTA 141号へ戻る

トップページへ戻る