内 輪   第112回

大野万紀


 編集後記でも書いたのだけど、ミレニアムの話。2000年が次のミレニアムの始まりだというのは今では「定説」のようです。『ニュートン』誌の表紙も「2000年、新たなミレニアム」といった感じだし。21世紀が2001年からなので、キリ番の2000年をお祝いしたい人たちが、それなら新ミレニアムだといいだしたのでしょう。でも、紀元0年はないのだから、1000年単位にしたところで2001年が次の切れ目だということに変わりはないと思うのですが。まあ、第1ミレニアムが999年しかなくても誰も困りはしないので、第2ミレニアムは1000年から1999年と決めてしまってもかまわないのかな。n=1の時は別扱いというのはよくある話です。何にせよ、千の桁が変わるのを祝うというのは自然な感覚だと思います。90年代といえば90年から99年。2000年から2009年はやっぱりゼロ年代というのだろうか。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『古書店めぐりは夫婦で』 ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン (ハヤカワ文庫)
 現代アメリカの普通の(といっても作家なのだから普通ではないか)本好きな夫婦が古書店の魅力にとりつかれ、古本オタクになってしまうまでのノンフィクション。ほのぼのとしたエッセイ形式で、気持ちよく読める。でもなあ、いくらきれいで素敵な本でも、何百ドルもする稀覯本を思い切って買ってしまう気持ちにはなれないよねえ(と同意を求めてどうする)。

『クリスタルサイレンス』 藤崎慎吾 (朝日ソノラマ)
 大森望が帯で「凄い。凄い。凄すぎる。日本SFに超弩級の新人が現れた」と書いているので、逆に大勢のSFファンがひいてしまったという作品だ。21世紀後半の火星で、北極冠から多数の生物の死骸が発見される。若い女性考古学者のサヤは宇宙・惑星開発省から乞われて、その調査に火星へと向かう。しかし、火星は国際紛争と疫病の危険な星だった……。といった発端から、ストーリーは発達した未来のコンピュータネットワークと、そこに存在する様々なレベルの人工知能――もちろん意識をもっているやつもいる――の活躍を織りまぜ、火星での激しい局地戦や大企業のトップにいる巨悪の陰謀もからめて複雑に展開していく。だが、そのベースにあるのは臆面もないラブストーリーなのだ。というわけで、絶賛するかどうかは別にして、本書は十分に良くできた本格SFに違いない。中でも最も力を入れて描かれているのが未来の電脳空間とそこに生息する様々なものたちで、その描写は月並みなサイバースペースものを越えたリアリティがある。ただし、いささかアイデアを詰め込みすぎた感もあり、未消化な部分も見受けられる。とりわけ火星の知的生命の話がほとんどほったらかしになったり、悪役がまるで安っぽかったりするのはいただけない。ストーリーが冗長で、中だるみしがちなのも難点だ。もっと話を絞り込んで、緊迫感をもって盛り上げていけば、文句なしの傑作になっただろう。とにかく、本格SFファンにとって、目の離せない新人の誕生であることには間違いない。

『ファイナルジェンダー ―神々の翼に乗って―』 ジェイムズ・アラン・ガードナー (ハヤカワ文庫)
 遠い未来の、見捨てられた地球。中世的な村落社会が物語の舞台だ。この村では、神々の手によって毎年20歳以下の男女は性転換される。そして20歳になると、〈最終性選択〉を行い、男女の(あるいは中性の)どちらかに固定されるのだ――という設定がすべてな話。タイトルとこの設定から、フェミニズム的な物語を想像すると大間違いだ。毎年性転換が行われ、性選択が個人の意志で決められるといっても、それはセックスの面であって、ジェンダーの面ではむしろ保守的で、今の我々と大きな違いはない。この村に南の国から科学者が調査に来たことから様々な混乱が生じるのだが、物語の中心は優柔不断な主人公の、ねじれた関係にある恋人や、父や母(これが問題なのだが)、村の有力者たちとの人間模様にある。設定の謎は最後に無理のないSF的な形で解かれるが、これが未来の話だとわかっていれば、そうびっくりすることでもない。やはり村の因習とその中に生きる若者たちの葛藤、そして文化人類学者のパロディみたいな南の科学者の行動がコミカルでちぐはぐな面白さを醸し出しているのだ。何というか、想像していたよりは意外と面白かったのだが、それにしてもこの作者は〈変な〉SFを書く人だなあ。もうひとつ、本書のキーとなるのは、男でも女でもなく、中性という異形である。

『順列都市』 グレッグ・イーガン (ハヤカワ文庫)
 サイバースペースをつきつめて考えるとこうなるのだろうか。リアリティというのとはちょっと違うが、強引に納得させるというところがある。時間をシャッフルしても意識は連続性があることを確かめる実験のシーンなんか、うなってしまう。だが、そういう〈コピー〉の話も面白いが、何といっても「塵理論」というのがすごい。京フェスでも名だたる論客たちが、冗談もつきつめればここまでいくか(作者には冗談という意識はないかも)、参りましたという感じだった。もっとも、いざそれをダイジェストして言葉にしようとすると、やっぱりよくわからないのだけれど。その内部に整合性あるロジックをもっていて、実現されるべきものは、(それがどういう意味であれ)自己実現してしまうという理論だよねえ。時間も因果律も関係ない。無限(かどうかはよくわからないが)の時空の中で、ロジックがそれ自身でその適合する時空(ではなくて)を広げていく。ビッグバンの瞬間とその後しばらくは、別の世界の物理的なコンピュータの内部で動く単なるプログラムだったかも知れないのだが――。塵というのは時空のある断片であり、それが内部に存在する意識の(ここが難しい)整合性によって、ちょうどアナグラムを解くように任意に組み合わされて、ちゃんと(内部的には)因果律も時間の流れも整合している解を作り上げる。思ったもの勝ちな世界。うーん。でもコンピュータの停止問題とか、そういうのとの関連を何となく思い起こさせる。とまあ、そういう超ハードSFではあるが、ぼくの場合、物語の方もそうひっかかることなく読めた。とくにマシンタイムのおこぼれの中で生きている男女の章がとても面白かった。

『リアルヘヴンへようこそ』 牧野修 (廣済堂文庫)
 これはまあ、死んだ猫が猫じゃ猫じゃをするし、ゾンビを操るし、という面では純然たるオカルト・ホラーなんでしょうが、怪しげな宗教の信者たちのおどろおどろしい描写はやっぱりサイコだし、レゲエのおじさんたちと少年と謎のトンデモなおじさんが共闘して敵と戦うのはSFのパターンでもある。で、まあそんなジャンル分けはどうでもいいのであって、郊外の隔絶されたニュータウンが超自然的な恐怖に(街全体が)襲われるという物語は、十分に堪能できた。とはいっても、「街全体が」というスケール感があまり感じられなかったこと(とくにクライマックスの大スペクタクルが、もうひとつ広がりがない)や、これほどの大騒ぎの後はいったいどう始末をつけたんだろうという疑問が解消されないこと(これは小野不由美の『屍鬼』でも感じた)など、不満な要素もある。後、作者はやっぱり超自然的な現象を、人間の意識が生み出したものとして理屈をつけている(おお、塵理論だ)が、これはぼくとしては全くOKです。ところで、斜行エレベータのある山に囲まれたニュータウンというと、関西にある、あの街を思い出してしまうのですが、違うんでしょうね。

『飛翔せよ、閃光の虚空へ!』 キャサリン・アサロ (ハヤカワ文庫)
 アメリカ版〈星海の紋章〉ですか。まあ、そういってもいい部分はあるかも知れない。ハードSF面を強調している人もいるようだが、基本は大時代なスペースオペラだ。敵対する国の王子と王女の恋なんてのもあるし。スペースオペラとしての出来は、ビジョルドのマイルズのシリーズの方がずっと上(実際、本書と比較するなら〈星海の紋章〉より〈マイルズ〉でしょう)。本書もデビュー作としては大変良くできているし、超感能力の描き方や、コンピュータ・ネットの扱いなど面白いと思うのだが、背景となる世界描写がまだまだ甘いし、登場人物たちの心情や決断、苦悩といったものが薄っぺらすぎる。おとうさん、そんなことでいいんですか。何億人の命がかかっているかも知れないんですよ。何といっても敵役が全然いけてない。どこかのプロパガンダにあるような、張りぼての悪役みたい。40年代ならそれでよかったかも知れないが。まあ、批判的に書いたけど、娯楽SFとしての水準はクリアしているし、ちょっとエッチっぽいシーンも多かったし、それなりに面白かったからよろしいんじゃないでしょうか。


THATTA 140号へ戻る

トップページへ戻る