内 輪   第110回

大野万紀


 プレステ2の発表、台湾の大地震、マーズ・クライメイト・オービターの失敗、そして東海村の臨界事故。何か、この一ヶ月ほどの間に大きな出来事が続いた感じです。プレステ2はまあいいとして、地震から臨界事故までは、人間の手抜きや不注意がどんな災害を招くかという悪い見本のようなもので、「マーフィーの法則」を信じるなら、「一匹見つけたらあと百匹はいると思え」というわけであり、本当にぞっとします。心の中ではまさか大丈夫だろうと思っている2000年問題だって、何が起こるかわかったもんじゃない。となると、やっぱり気を抜くわけにはいかないなあ。しんどいもんです。
 台湾の大地震の映像を見て、まるっきり神戸の映像といっしょなので、あの時の暗い気持ちがよみがえりました。震度4でビルが崩れるなんて、手抜き工事以外の何ものだというんでしょうか。テレビ局のレポーターたちが(もちろんそんなことはないんでしょうが)、まるで大事件の現場でわくわくとしているように、内心の興奮を抑えながら深刻そうにレポートしている(という風に見えてしまう)のを見ると、あの瓦礫の下にまだ人がいるのに、と思ってしまうのです。この前といっしょだ……と。駅前の崩れたマンションを横目で見ながら、毎朝通勤していたあのころの、どこか後ろめたいような気分がよみがえります。だからどうだ……というんじゃないんですけどね。
 マーズ・クライメイト・オービターの失敗はメートル法とヤードポンド法が混在して、計算を間違ったからだというじゃないですか。本当にもう。いや、コンマが抜けるだけでバグって動かないプログラムの世界では当たり前の事なんだけど、ぶっつけ本番だったのかとびっくりしてしまいます。スヌーピーのマンガで、チャーリー・ブラウンたちがマイルとメートルの換算を一生懸命勉強していたけど、NASAの偉い人たちも見習ってほしいなあ。
 東海村の事故については、もう何もいう気力がありません。世界の終わりというのは、恐怖の大王が降りてこなくても、日常作業の小さなミスの連鎖から、誰も知らない間にひっそりと始まるものなのではないでしょうか。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『仮想空間計画』 ジェイムズ・P・ホーガン (創元SF文庫)
 ズバリな日本語タイトル(原題はRealtime Interrupt)。ヴァーチャル・リアリティな空間に閉じこめられ、そこで生活する主人公たち。まあ、そういう話なのだが、これがいかにもホーガンの面目躍如。ヴァーチャル・リアリティにリアリティがあるというわけだ。だけど普通の読者には、よくあるこの手のSFとあまり違いはわからないような気がする。コンピュータ科学的な側面にそれほど力を入れて描写しているわけではないからだ。それよりも本書の場合、登場人物たちの人間的側面の方が面白い。ホーガンが、なぜ? という感じだが、アイルランド人を主人公にもってきたことが成功しているように思える。テレビドラマ的な企業内権力闘争には、またかやれやれと思うのだが、アイルランドのローカリティが本書を単調なサスペンスに陥ることから救っている。もう少し短かったら文句なしに傑作だったのだが。

『百鬼夜行――陰』 京極夏彦 (講談社ノベルス)
 短編集。これまでの長編に出てきた登場人物たちの裏話的な話ということなのだが、いくつかをのぞいてほとんど覚えていないのだよなー。妖怪小説とあるが、明らかに超自然的な話はなく、人の心の奥底から現れてくるものばかり。で、はっきりいってどれもこれも過去のトラウマがどうしたこうしたの、似たような話になってしまい、いささかうんざり。これで人物に興味がもてたら、もう少し面白かったのかも知れない。その点、最後の関口の話は、キャラクターがわかっているだけにそこそこ面白く読めた。でもなー、こんないじいじ、じめじめ、鬱々とうっとおしい話ばかり続けて読むのも、ちょっと苦痛ではある。

『宇宙消失』 グレッグ・イーガン (創元SF文庫)
 量子力学観測問題SFっていうか、実はディック風の現実崩壊SF。ストーリー的にもちょっと崩壊している(まあ、それほど問題じゃないのだが)。面白かったのは、観測による収束(確率的な多元宇宙から一つの現実が選ばれる過程)が比較的ローカルな現象だというアイデアだ。この近傍の固有状態が確定しても、他の観測者が観測しているかも知れないが、まだこちらと接触がなくて一つの系となっていない遠隔地については、その影響が及ばないということ。ローカルな観測が足し合わされるごとに、系全体として改めて再計算されるようなイメージか。なんか物理学的には(いくら遠隔地でも因果関係がある限り同時に収束するはず)まずいような気もするのだが、直感的にはわかりやすい。そこで全宇宙の多様性を人類の観測から守るというようなアイデアも出てくるのだ(あ、これはネタばれだったか)。というように、とても面白いSF的アイデアがいっぱいなのだが、なぜかワクワクドキドキ感が薄い。低血圧なというか、「体温が低い」(宮城博)という感じ。宇宙論的なアイデアを持ちながらもそれが地上で、それもごく狭い範囲でのみ展開するということもあるだろう。ストーリーの大半がサイバーパンク風な近未来サスペンスの枠組みで(ただし派手なアクションなしで)語られるということもあるだろう。あるいは、これがイーガンという人の資質なのかも知れない。

『陋巷に在り5/妨の巻』 酒見賢一 (新潮文庫)
 今回も物語があまり進まない。美少女、はあいかわらず操られたままだし、孔子は重要な局面でチョンボばかりしていてダメだし、肝心の顔回はほとんど出てこない。孔子教団の危機が続いております。費城攻略にからむ陰謀が進行していて、話は面白いんだけどねえ。次が文庫になるのはまた一年先かなあ。

『私と月につきあって』 野尻抱介 (富士見ファンタジア文庫)
 マンガな表紙で、美少女たちが月旅行をする話、というといかにもな感じだし、実際にオタクな読者にも「萌え萌え」で読めるヤング・アダルトな話であるのだけど、これはまあ全くハードな宇宙SFでもある。「20世紀最後にして最高の月探検SF」という著者の自負は決して的はずれではない。ところで、ハードで宇宙なSFではあるが、本書にはSF的飛躍はほとんどない(もちろんスキンタイト宇宙服みたいな、嬉しい飛躍はあるのだが、本書の場合決定的ではない)。かつて近未来ハードSFという言い方が(クラークの短編などを指して)あったが、技術的なディテールをこつこつと積み上げ、地味でリアルな未来像を作り上げていくタイプのSFだ。サイエンス・フィクションというより、エンジニアリング・フィクションであり、また一つの困難な技術的プロジェクトをやりとげることの感動を描くプロジェクト小説でもある。クラークや小松左京や谷甲州の作品にもあるこのような小説を、谷甲州は「土木SF」と呼び、ぼくも「『黒部の太陽』SF」とか「現場SF」などと呼んだこともあるのだが、作者は汗くさい男たちではなく、可愛いキャピキャピの美少女たちを使って、そういった「お仕事」の「現場」のSFを書いたのだ。このギャップ(?)が面白い。ぼくはだいぶ免疫ができたので、こういう文体でもOKになってきたのだが、どうしても受け付けられないという人もいるだろう。ヤング・アダルト版とオールド・アダルト版と、二種類欲しくなる。こういう話が文体が合わないだけで読まれない場合があるというのは、何とも惜しいと思うのだ。しかし、作者はフランスに何かうらみでもあるのだろうか?


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