内 輪   第106回

大野万紀


 5月2日に東京で開かれたSFセミナーに行ってきました。

 朝6時に起きて、新幹線で東京へ。眠い。さすがに半分寝ていた。会場はいつもの全逓会館だが、会議室がいっぱいになるほど人があふれている。ネットワーク関係で参加者が増えたのと、神林さん、森岡さん、篠田さんといった人気作家が集まったこともあるのでしょう。会場風景

 ぼくが入ったときは「文庫SF出版あれやこれや」という編集者座談会が始まっていた。古浜くん、込山さん、ハルキ文庫の村松さんと、司会は高橋良平さんというメンツだったが、とにかく古浜がしゃべるしゃべる。しゃべりすぎだわ。星雲賞受賞の帯でも確かに売り上げに効果があるそうです。

 なぜか昼飯は木戸英判や冬樹蛉といった個人的に縁の深い連中といっしょになる。サイフィクトって呼びにくいんでsfと略したらどうか、なんて雑談。

 昼からはまず「スペース・オペラ・ルネサンス」と題して、大宮さん、「星界の紋章」の森岡さん、司会は堺くん。どうやら大宮さんの持ち込み企画らしいが、いつもの大宮節で、何だか話がかみ合わない。森岡さんのヒロイック・スペオペとエピック・スペオペという話が面白かった。ところで、スペースオペラは中黒がないほうが好きだなあ。

 続いて牧真司さんによる神林長平インタビュー。これは良かった。印象に残った神林さんの発言を箇条書きしよう。
 ・今のステルスなんか美しくない。
 ・スピードが重要。
 ・京極にはまっている。
 ・ネコが好き。
 ・イマジネーションとしての話だが、高いところから俯瞰したい。
 ・同様に、同じ所にはじっとしていたくない。
 ・メカについて、機械の作り手が見えることが重要。

 セミナー昼の部の最後は山岸真さんによる篠田節子インタビュー。この人もかなりSFな人でした。ソラリスが今まで読んだ一番怖い(描写の)小説だとか。あと突然ホワイトボードを持ち出し、10年前の舗装の下に3ヶ月前の死体が発見されたとして、どう考えるかと質問。指名された大森望さんは「マントル対流で……」と実にSFらしい発想で答えたが、篠田さんも地層の逆転とか、果ては地底世界があって……とか考えるのだそうだ。ミステリ的な発想にはなかなかならないのだそうです。しかし、そういう面白い話をちゃんとフォローできず、いかにもまじめでまともな方向へと持っていってしまったのは、せっかくのSFセミナーという場を生かしきれていなかったと思う。ちょっと残念。

 合宿では大広間でうだうだしていた後、新戸さんの「マッドサイエンティスト列伝」に行ってみた。しかし、これはフィクションのマッドサイエンティストと現実の奇矯な科学者とが入り交じり、ポイントがはっきりしなくて、あんまりぼく的には興味がもてなかった。
サイコドクター暴れ旅ほんとひみつ 続く風野さんの「サイコドクターあばれ旅・SFセミナー特別編」はSF的にも面白そうな症例紹介(宇宙語で会話する夫婦とか)。それも興味深かったが、むしろ部屋にいる人たちの医療相談といった面もあった。決して人ごとじゃないんだよねえ。
 後は三村美衣他の「ほんとひみつ」を見る。コースやなんかの付録がどっと50冊というのがすごかった。それからオークションになり、盛り上がったみたいだったけれど、ぼくは何せ6時起きだったんで、寝部屋をさがしてバタンキュー。

 朝は大広間でうだうだ。エンディングの後は京大勢と朝の本郷をくねくねし、マクドでモーニング。その後えんえんと雑談。京大SF研が今年で20周年ということで、京フェスでパーティをやろうということに決まる。KSFAも25周年なので、またいっしょにやるかも知れないね。

 というようなことで帰ってきましたが、今年もSFセミナーは盛況でした。大成功といってもいいんじゃないだろうか。スタッフのみなさん、参加者のみなさん、ご苦労様でした。また来年もよろしくね。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。4月は何だか忙しくて、本がほとんど読めなかったなあ……。その分、連休でまとめ読みしたけど。

『グランドホテル』 井上雅彦編
 異形コレクションの9。今回はバレンタインデーに何かが起こるという、同じホテルを舞台にした作品が収録され、競作といった趣向になっている。その趣向は面白いのだが、どうも同じようなテーマの作品が続いているという印象を受け、また全体としてまとまりがあるかというとそうでもなくて、ちょっとぼくからすれば物足りない1巻となった。編者の設定に忠実な人もいれば、羽目を外す人もいて、中でも田中啓文「新鮮なニグ・ジュギ・ペ・グァのソテー。キウイソース掛け」はゲテモノSFとして印象が強烈。田中啓文さんもシュールストレミングを食べに行けばよかったのに。

『プラネットハザード』 ジェイムズ・アラン・ガードナー
 カナダの新鋭作家のデビュー長編。肉体的欠陥のある者が選ばれてなるという、消耗品扱いの惑星探査員。殺人をするものは「知的生命体でない」として種族全体が断罪される何だかバランス感覚のおかしな〈種族同盟〉という異星人の連合に人類も所属しており、そのルールの下で、怪しげな陰謀やらに巻き込まれる惑星探査員のヒロイン。彼女は誰も帰還したもののいないという惑星へ派遣されるが……。という冒険SFなのだが、章立てが短くユーモア感覚もあり読みやすいにもかかわらず、やっぱり何だか変な小説だ。どうも登場人物たちの考えていることや重視していることが、こっちにピンとこない、何だかずれている気がして、感情移入できない。波瀾万丈な冒険SFを読んだというよりも、アメリカン・コミックのシナリオを読んだような(そんなもの読んだことはないから本当はどうだかわからないけど)印象だ。すらすら読めて、それなりに面白かったんだけどね。

『星ぼしの荒野から』 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
 81年の短編集で、ラクーナ・シェルドン名義で発表された作品も収録されている。この少女マンガっぽい表紙と帯「愛と涙と感動の珠玉の名品集」はミス・リードだよねえ。とてもとても、そんなに甘くはないよ。ティプトリーに誰よりも入れ込んでいる一人であるはずの水鏡子でさえ、「この本(の少なくとも前半)に載っているティプトリーの作品はティプトリーらしくない駄作だ。バランスがおかしい」というぐらいで、おそらくはある年齢以上の男性読者にとって、おそろしく口当たりの悪い、居心地の悪くなるような作品が多く収められている(念のため書いておくが、水鏡子は40代後半に入ったところの男性です)。ただ、それらはやはり駄作というものではなく(いや水鏡子もわかって言っているのだ)、70年代後半の暗い重いティプトリーの視線をしっかりと受け止めて、人類と自らの問題として考えなければならない作品群なのである。もちろん、小説はりっぱな議論をすることよりも、面白く読めることを第一義としなければならないという立場からすれば(ぼくもそうだし、ティプトリーだってそうだったように思う)、これらの諸作が何だかバランスがおかしいと感じるのも間違ってはいない(それにティプトリーだって出来不出来があるのも確か)。でも「ラセンウジバエ解決法」や「われら〈夢〉を盗みし者」に代表的に見られる、彼女の人類に対する冷たく暗い絶望感、それを今書き留めておかなければならないというせっぱ詰まった感じ――当時のティプトリーには、きっとルワンダやユーゴの現状が目に見えていたのに違いない――人間は相手の集団に、自分とは異なるほんの小さな差異をラベル付けすることによって、どんな恐ろしいことでもやってしまえるものだ、という恐怖。そして一番簡単で、根本的な差異は男か女かということだ――それが重く、読む者の心にずっしりとこたえてくる。ティプトリーはこれらを寓話として書いたのではないよ(それなら50年代のSFにもたくさんある)。彼女はそれを事実として書いたのだ。
 さて、後半には80年代になってからの作品が収められているが、こちらはむしろティプトリーにふさわしい(と期待される)バランス感覚が復活している。絶望を越えて、ある種ふっきれたというか、そういう感じか。「スロー・ミュージック」はとても好きな話だ。死を前にした、このリラックスした感じが、理屈じゃなく心地良い。「星ぼしの荒野から」も好きな話だ。おたくな美少女の活躍する話だから好きという側面もあるかも。ただし、ミス・エムステッドの役割だけはSFの理屈で割り切れない、不可解な謎があるように思う。同様に不可解な近親相姦テーマですら、ここにからんでいると思われる。「たおやかな狂える手に」は「ビームしておくれ、ふるさとへ」の再話だ(いや、どの話も実はそうだといえるのだが)。あらゆるレベルで疎外されている主人公の、帰るべきホーム。だが現実のホームは彼女や彼をそのまま受け入れてくれはしない。すごく低いレベルで語るなら、これってSFファンやおたくたちの心の声じゃないんでしょうか。
 最後に、伊藤典夫さんのあとがきに、ひどく居心地の悪い気恥ずかしさを感じてしまった。これって何かやばいよねえ。いやおかしなことが書いてあるというわけじゃないのですが(でも「おお、わが姉妹よ」に「エロティックかつ官能的」と書くのはまずいでしょと思うし、「われら〈夢〉を」でスタートレックを引き合いに出すのも何だかなと思う)、ぼくらデビューしたてのティプトリーに熱中した中年男性たちの、結局この20年何をしてきたんだろうと我が身を振り返り見させられる……ああ、こっちもメロメロな文章になってきた。もう止めとこう。

『玩具修理者』 小林泰三
 角川ホラー文庫に入ったのでようやく読みました。表題作は普通の(?)ホラー/SF/ファンタジイ。何とかの一つ覚えみたいな感想ですが、諸星大二郎だぁ。面白かったけど、「ようぐそうとほうとふ」なんていう言葉は、それがいいという人がいるのもわかるけど(解説みたいに)、ぼくはいやだ。いっきょにスケールが縮んで、特定のラベル付けの世界に矮小化されてしまう(それを矮小化と見るかどうかは人によるんだけどね)。中編「酔歩する男」は、誰もが認める通りのSF。でも普通のSFじゃない。これは一見時間旅行テーマに見えるけれど、実はもろでハードな量子力学SFというかなり珍しい作品だ。時間(の流れ)というのは錯覚に過ぎないという話だから、時間旅行じゃないのです。ヴォネガットのトラルファマドール星人を思い浮かべる人もいるだろうけど、あそこでは時間線は確定しているが、こちらでは全てが不確定で、そのため当事者にとってより恐ろしく不条理な恐怖が描かれる。すごい力わざだけに、現代のSFというよりも、むしろ古風な科学怪奇小説とでもいう趣がある。

『クリムゾンの迷宮』 貴志祐介
 角川ホラー文庫書き下ろし。ホラーといっても超自然的な要素は皆無で、人里離れた隔絶した自然の中で、生き残りをかけて命がけで戦われるサバイバル・ゲームの話。ゼロサム・ゲームという言葉が強調されているが、それはルールを厳守するならということであって、現実世界で戦われるこのゲームにおいては(最後で主人公自身そういう行動をとるのだが)あんまり深い意味があるとは思えない。シチュエーションはありがちだが、謎を追うよりもサバイバルそのもののサスペンスで引っ張っていく。さすがに面白く、ぐいぐいと物語の世界に引き込まされた。読み終わった後では、さすがにこれはないだろうとか、色々なあらが見えてくるのだが、読んでいる間はそんなことはどうでも良かったので、何もいいません。主人公とヒロインの設定がけっこうおたくな感じで、おやっと思わせる。

『フェアリイ・ランド』 ポール・J・マコーリイ
 ナノテクSFというけれど、結局サイバーパンクな話だ。それも最悪のサイバーパンク。決して訳者のせいではないけれど、読みにくいったらありゃしない。現代の、あるいは近未来の妖精物語を書きたいのなら、もっと書きようがあるだろう。イアン・バンクスみたいに遠未来の話にするなら、まだついていけたはずだ。グロテスクに変容したヨーロッパという主題はいい。でも現実のユーゴの戦争をテレビで見ながらこのアルバニアの戦いを読むのはイヤな経験だ。作者は様々な難解なテクニカルタームにこだわるあげく、その想像力は現実に負けてしまっている。本書のエキゾチシズムは書斎のエキゾチシズムであり、その視点には傲慢さを感じてしまう。まあ、そのことはとりあえずいいや。第一部は、読みにくいことは同じだが、物語に入ってからはまだドライブ感があって、サイバーパンクのいい方の面白さがあった。ところが第二部は話が錯綜し、妖精物語の、取り替えっ子のテーマを除いては、ほとんど何を語っているのかすらわからなくなる。第三部はまだ読ませる所があるのだが、物語の視点をわけたことの意味もなく、最後のまるで50年代SFみたいな結末(新人類の誕生!?)には唖然としてしまう。もしかして根本的にどこかで誤読しているんだろうか。ただ、第三部で現れたパウエル夫人というキャラクターは好きだ。この人、絶対に何かあると思ったんだけどなあ。結局何だったんだろう。


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