みだれめも 第109回
水鏡子
今月の名セリフ。
「来……年は……」騒ぎのなかで、アイネイアが叫んだ。汗がしたたるほど空気が加熱されているというのに、歯の根がガチガチ鳴っている。「休暇を……とろうね……どこかよそで」(566ページ)
抜き出すとほとんど無意味な文章ですね。でも、こういう言葉をあのシーンで使えるところがダン・シモンズのうまさというもの。
『エンディミオン』(早川書房 酒井昭伸訳 3000円)はほんとうにうまい。物語の進め方もそうだけど、あきらかに二分冊本の上巻でしかないものが、とりあえず、読後感として一応のくぎりがつくというのがすごい。話が途中でぶちきれてるのに、腹が立たない。
書かれざる部分が幻視されることで作品自体にさらなる広がりを付与していた『ハイペリオン』の場合とは異なる。『ハイペリオンの没落』が書かれなくても『ハイペリオン』は傑作として完成しているが、『エンディミオン』は下巻がなければ物語として欠陥品だ。それだけに、とりあえず続きが当分出なくても、がまんができる仕上げのわざは職人芸だ。登場人物たちにずいぶんと肩入れできただけにいっそう思う。『宴の始末』なんか、じりじり待たされたことによるフラストレーションがよけいラストに対する怒りを増幅させる原因となった。
枚数的には前2作と似たようなものだが、内容的には拾遺集。相当軽い。語り残した謎はあっても、基本的に語らねばならなかったオブセッションは『ハイペリオンの没落』で解消されている。振り返ってみてやっぱり『没落』は、語らねばならないこと、書かねばならないことが書く前からあらかじめ決められていたという意味で、作者にとって書くことが重たい窮屈な小説だったように思える。
軽いというのは半分がとこ褒め言葉。すでに語られてしまった世界の中で、のびやかに解放的に冒険行をしるしていく。ひとりひとりの登場人物、ひとつひとつのシーンが、大きな物語への帰属義務からときはなされて、自己目的的に舌舐めずりされながら書きこまれている感がある。『光の王』や『わが名はコンラッド』のかっこよさと裏腹の、もったいぶった底の浅さににせものめいたいかがわしさを感じ続けた後で、『アンバーの九王子』に出会ってこれこそ過不足なしのゼラズニイ!と快哉を叫んだ心境なんかにちかいかも。(ふしぎなことに、『九王子』に真骨頂を感じたあとだと、最初不満だった『光の王』も、『九王子』からの視線を通して魅力的に見えてきた。) とりあえず、今年読んだ本のなかでは、下巻なしのこれだけでもベスト。訳者解説はくりかえし『オズ』に言及している。もしかしたら続編の展開に『オズ』が伏線になっているのかしれないけれど、ぼくにはあんまりそんな印象はなかった。もっとも大野万紀は『オズ』だといっている。ルーシーとライオンときこりとかかしの4人組だといわれればなるほどそんなふうに見えなくもない。そうすると、オズはソルというところか。ぼくとしてはむしろ「ターミネーター」を味付けした『エンパイア・スター』通俗版といった印象。マルチプレックスをキー・コンセプトとしたあの本のめくるめく奥行には欠けるけれども、そもそも出自が拾遺集なのだから、無理をいってはいけない。シンプレックス、コンプレックス、マルチプレックスの語感を連想させるデータスフェア、メガスフェア、なんとかスフェアってな表現もたしかどこかで一回見かけた。もちろんサン・セヴェリナ=アイネイアである。ユリウス十四世がナクター皇子。『エンパイア・スター』の時空構造からすると、シュライク=エンディミオンもありかなとか思いながら読んでいたけど、それよりはシュライク=デ・ソヤがよさそう。などといろいろたくらみつつ下巻期待。
ザッタの例会にいくと、読んだ人間みんな絶賛の嵐。のびやかに、しかも〈わくわくしながら読めた〉というところがどうやらみんなお気に召したようである。
こういうSFが読みたかった、てね。
連想ついでにいえば『ゾッド・ワロップ』(ウィリアム・B・スペンサー 浅倉久志訳 角川書店 1700円)
このような作品は手にしたことがない、といった評が紹介されているけれど、予定調和の結末も含めて、けっこうなじみのある読後感。何に似ているかと考えたら、「ネバー・エンディング・ストーリー」。エンデをじつは読んでないので、印象はあくまで映画との比較。あれの現実世界と本の中の世界の関係をひっくりかえすとこんな感じの話になるのではないか。
まとまりのあるきもちのいい本だけど、評価としては中の上。
一時熱中したHゲーにもさすがに飽きてきたのだけれど、そのなかで「鬼畜王ランス」以降のアリスソフトだけはなんか絶好調という感じでこまめにフォローしている。理由というのが、以前にも書いたように、物語の組み立てにHシーンを基底に置いていないから、というのだからいったいなんのために遊んでいるのやら。実際ほかのゲームも含めて、Hシーンになると話が進まないのでスキップさせて読み飛ばすことが多々ある。
そういえば、昔、西村寿行百点一気読みというのをやったときも、途中からヴァイオレンスと凌辱シーンは読み飛ばしたのを思い出す。
「プロスチューデントG」はオタクギャグを満載した〈スーパーロボット大戦〉タイプのシミュレーション・ゲーム。もったいぶった大げさなギャグが連発されるが、それが上滑りして白けさせたりしないのに驚く。楽しみながら作っている気分、楽しませようと作っている気分が伝わってくる心地よさ。ティプトリーの初期短篇から感じる気分を連想させるといったら冒涜か? コミケ会場を舞台にした巨大ロボットバトルの効果音とか、合体ロボット・猿皇初登場のシーンなんかの演出はけっこう感動ものだった。
おまけCDに入っている、制作者の日記を読む。法令対策のため上京したときの感想が面白い。「どの会社もしっかりと将来のことを考えている。ちゃんと顔を合わせて話すと理解しあえるのに、東京の方は、みんなケンカしているからなかなか話し合いができないんだよな…もったいない話だ。」うーむ。なんか聞き覚えのあるフレーズだ。
『チグリスとユーフラテス』(新井素子 集英社 1800円)を読んでる途中で、たまたま遊んだドイツのボードゲームが「ユーフラテス&チグリス」。おおシンクロニシティじゃんと喜んだのだけど、語順にちょっと驚いた。あちらでは、ユーフラテスが前にくるのか。
マクロ・スケールのSFとしては全然だめ。組織や制度をめぐる思考が書き割り的で登場人物たちの重たい重たい個別事情を支えきることができない。駄作と切り捨てられないのは、今も書いた個別事情に関する部分あくまで主眼の本であって、そこにこめられた思いというのはないがしろにしづらいものがある。世界構築の粗雑さと個人をめぐるつきつめた思いが、冗長すぎるといってもいい千五百枚のなかを徘徊している。
いろんな意味で読むのがしんどい本だった。
『絶版文庫交響楽』(近藤健児 青弓社 1600円)
これが思いがけない拾い物。大量に本を買込み、しかも大量に読んでいる人間の蘊蓄話であるけれど、海外主流文学をあくまでエンターテインメントとして玩味する教養主義的な姿勢が美しい。基本的にはこんな作家が文庫で翻訳されているよと、国別に紹介しているだけの本なのだけど、リストが大部を占める四百枚足らずの本に仕入れた膨大な量の知識を詰めこもうとした結果からか、文章が硬質で密度の高いものとなる。無味乾燥に陥りがちなリスト本だけに、この文章は貴重である。