みだれめも 第108回

水鏡子


『現代SF最前線』森下一仁(双葉社 3800円)
 ぼくが80年に、奇想天外誌で見開き2ページの「短篇の部屋」というSF時評を担当した時、「長篇の部屋」2ページを担当していたのが森下さんだった。同じく境界領域を担当する「異端の部屋」2ページを担当したのが大瀧啓裕さんだった。読者を煙に巻く衒学趣味的蘊蓄が大瀧時評の持ち味ならば、自分性を抑えこみ、ある種教科書的に誠実に、対象としての本と読んだ本から得たものを伝えることに徹していたのが森下時評だったといえる。当時すでに実績のあった二人の相異なるスタイルの間で、自分のスタイルをどんなかたちにまとめるかが新米時評者にとっての大きな問題だった。
 あるいはSFマガジンで単品の書評をやるようになったとき、書評という文章をどう組みあげていったらいいか、当時活躍中の人たちの書評をいろいろ見ていたなかで、一番参考になったのは森下さんのものだった。
 書評の方法論は、大きく分けてふたつある。本に即して語るか、自分に即して語るかである。
 書評というのはほんとうは、1行か2行でかたづけられるのが理想のような気がしている。
「この本は好きだ(きらいだ)。面白い(つまらない)。だから(でも)、お勧めする(お勧めしない)」
 それ以上の部分はすべて、この1行ないしは2行のための説明文だ。これだけではなかなか相手を納得させられないから行なわれる説得作業に過ぎないものだ。蛇足である。
 自分にとっては面白くても万人に勧めづらいものもあれば、きらいだけれど面白い本もある。たぶんこれだけのことを書いて、読者が納得してくれて、編集者が満足してくれて、大枚払ってくれるなら、それで充分使命を果たしたはずである。
 でもたいていは、これではなにがどう面白いのかわからないとか、好き嫌いをいうあんたはいったい誰?とかいったつっこみが出てくる。当然でしょうな。
 そのために、この本はこういうふうなあらすじで、こういうことについて書かれていると説明したり、読みどころがなぜ読みどころであるのかを了解してもらうのが、本に即した書評である。そこからさらに視点を後退させると、作家の全体像的やジャンルの総体的なイメージを浮きあがらせて、そんな絵図の顕現した断面として本を位置づける作業も発生してきたりする。
 あるいは好きだ嫌いだというあんたは一体だれ?という問いに先んじるかたちで、おれはこういう性格でこういうふうに世の中を見ている人間なのだ、まずおれを理解して、そういう人間の評価であるというところから、おれが面白いというものがどういうものか納得してもらいたい。これが自分に即して語るということ。あるいは自分の世界観、文学観はこういう思想背景、理論背景に基づくものであり、書評もまたそんな思想を展開していく素材であるとする立場。ブランドとしての自分を売込み、ブランド・イメージを読者層に了解させることで、個々の文章内での説明をはしょることが許される立場を確保しようとするやりかたである。書評書きも自己顕示欲の発達した物書きの集まりなのは同じこと。場合によっては御本尊たる本を足蹴に、自分を売込むことが自己目的化しかねない。
 もちろん大別すればというだけで、みんなそれぞれ都合よくふたつの立場を使いわけ文章をしあげているのが実情だし、本か自分かといってみたって、ジャンルを俯瞰した立場からの紹介と、理論的視野からの展開なんてほとんど紙の裏表である。ちなみにぼくのポジションは、もともと発言している内容が、わりと常識的なあたりまえの意見だという自覚があるから、付加価値をつけ差別化をめざして、とりあえず書き居振舞いの方向からのブランド化を目論んだのだと思われる。
 森下書評というのは、当初から、そうした自分のひけらかしをよしとしない気風が備わっていた、と振り返ってみて思う。長年SFを読みこんできた人間が、その読みこんできた経験を生かして、ひとりの読者として感じた意見をできるだけすなおなかたちでうしろに続く読者に伝える。精力的な指導者やオリジナルな理論家ではなく面倒みのいい先輩意識。そんな心意気が感じられる。そしてそうした心意気は、専門誌といっても中間小説誌の色合いが濃い、継続的な書評読者層を想定しづらい〈小説推理〉のような場所を主要な活躍舞台とすることで、いっそう強化されたように思われる。もっとも、そのわりには、夢枕獏はともかく菊地秀行への言及がほとんどなされないといったところ、そこの読者層の興味を惹きそうな作家に比重をかけるわけではないあたりには、一種の衿持を感じる一方、いいのかなと思ったりもする。
 個人的にはこのようなまっとうな姿勢というのがいかにも本人の人柄そのものみたいで気持ちいいのだけれど、一冊の本としてまとめあげられたものとしてみた場合、それが個性の弱さとして出てくるマイナス面を否定できない。700ページという分量が、けっこうだらだら読めてしまうこと、全体を通しためりはりに欠けること、15年という歳月の変遷がただ読むだけでは捉らえづらいこと、それらは森下書評のもつ読者と個別作品への誠意が裏目に出た部分であると思える。ある種あるがままというポリシーは、いかにも森下さんらしい気もするけれど、本にする機会は1回しかないのである。めりはりなんか、これだけの素材であれば、編集やレイアウトの工夫によって、いくらでもさらに立派なものになったと思えるところが正直惜しい。表紙写真を載せるとか本書も頑張っていることはいるんだけどね。たとえば、年度単位での主要出版データを掲載するとか、ベスト10を載せていくとかそういうことだけでも見栄えが変わったと思う。一見平易でおとなしそうな文章だけど、問題提議や作家・作品批判の類いははっきり言ってぼくより多いし、過激でもある。内容の充実ととっつきやすさが両立した貴重な本であるだけに、いっそうありえたかもしれない本が頭の中に浮かんできてしまう。ぼくの本の書評が単行本としてはじめて再録されたありがたい本であることもあって、ちょっと著者との距離感をとりにくいレビューになった感もある。
 本書のひとつの楽しみ方として、後ろの人名インデックスの活用をお勧めする。一人一人の作家に対し同じ言い回しの使用をできるかぎりさけながら、くりかえし言及していく作業のなかに、通して読むなかでは拡散しがちな作者の主張が凝縮されて見えてくるから。

 と、誉めた(誉めてんだよ! なんかけちをつけてる文章の方が多いようなきもするけれど)あとで、なんだけど、SFM3月号の98年年度ベストのコメントはちょっといただけない。たしかにSFプロパーはほとんど壊滅状態の結果だったけど、SF的手法へのこだわりという意味では、むしろこれだけ良質できちんとしたものが大量に姿をみせた年というのははじめてのように思える。ぼくがちゃんと読んでいなかっただけかもしれないのだけれど。むしろこうして書かれた作品を、SF的手法にこだわったものとSF的設定にのっかったものとに自分のなかで区分けしていくことでしか日本SFの新たな地平というのはみえてこないのではないかと思う。98年度の日本SFを豊作と位置づけることから、過去の年度に遡ってSF地図の再構築を図ってみるというのもひとつおもしろいかもしれないなと考えたりしている今日このごろであったりする。(考えるだけでやらないと思う。めんどくさいから)

 というわけで、SFM3月号の年度ベストについて。
 何が驚いたといって、『ホログラム街の女』の第6位には目をこすった。自分も投票しておいて、こういうことをいうのはなんだけど、こんなものは10位から20位くらいのところにこそっとのっかっとくべきものである。みんな立派なSFに疲れているんだなあとしみじみ思った。わたしゃ、こういう本もあったんだよと心にとめおいてもらいたくて、はずかしがりながら5位にまぎれこましたというのに。これを堂々と選ぶなら、アスプリンやら『夜来る〈長篇版〉』だってもっとあがってこなくっちゃ。コメント的には福本直美が立派だった。ああいうコメントで選ぶのなら充分許せる。そうでない人間、梶尾真治、日下三蔵、高橋良平、巽孝之、中村融、星敬、牧眞司、山岸真、こいつらみんなぼくより保守反動だ!


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