内 輪 第97回
大野万紀
SFオンラインの3月25日号は大学SF研特集で、読んでいると、とても懐かしい気分になった。別にあのころの連中とは今でも毎週のように顔を合わせているわけで、そういう意味ではすごく懐かしいというわけでもないのだが、ラウンジや喫茶店や下宿に集まって(うちのSF研も部室はなかったので)、わいわい無駄話ばかりしながらファンジン作ってたあの頃の気分というのは、今の若い人も同じなんだなあと、つい遠くを見る目で微笑ましく見てしまったのでした(おじさんなんだから、許してね)。
それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『タイム・シップ』 スティーヴン・バクスター
昔、光瀬龍がどこかで「1億年くらい生きて見たい」といったことを書いていた記憶がある。それくらいのタイムスパンで地球や生命の進化や宇宙を眺めて見たいという意味だ。『火の鳥』でも一つの種の進化から滅亡までを傍観するシーンがあり、そういう時間感覚にはとても惹かれるものがある。
本書はウエルズの『タイム・マシン』の続編の形をとっていて、19世紀スチームパンクの味わいも豊富だが、何よりも50万年とか、その後での5000万年とかいった、とんでもない時間経過の中での人類進化を傍観できるすごさがある。タイムマシンから外の世界の変化が見えるというのが嬉しいのだ。物語の方はタイムパラドックスを多世界解釈で押し切っているので(世界間のインタフェースというのが後でちょっと出てくるが)、因果律も気にしないままに、あっけらかんと進んでいく(何しろ若い頃の自分と一緒に冒険するのだ)。でも、世界を横切りながら時間軸を行ったり来たりする中での因果律というのが、よく考えるとやっぱりわからないのだなあ。ストーリー的には、5000万年の歴史という大技を除けばそう大した話じゃないのだが、人物が絞り込まれているためか、いつものバクスターの欠点は目に付かない。冒険に同行するウォーロックのネボジプフェルがとてもいい味を出している。ウエルズを読み込んでいる人にはまた別の楽しみもあるだろう。
『ホーリー・ファイアー』 ブルース・スターリング
おばあちゃんが支配する21世紀後半の社会をスペキュレートした未来SF。この未来像は確かにそれらしくて、リアルっぽい気がする。でもほんの50年先でもどうなるかわからんよ。ちょっと前の未来がレトロ・フューチャーっていわれるんだから、今の未来もどうせ……と思ってしまう。まあそれをいっても始まらないので、スターリングのこの未来はなるほどそういうのはアリかも知れないなと思わせる、そんな目新しいリアルさがある。まあ、それだけの話なんですけどね。でも若くなったヒロインの冒険がちっとも60年代っぽくならないのが、おかしい。ふーん。やってることは昔の遍歴小説とよく似たもんだと思うのですが(日常に飽き足らないお嬢さんがヒッピーのコミューンに飛び込むとか)。この手の遍歴小説なら60年代の方が面白かったぞ。しかし、若者社会よりも、おばあちゃん社会の方をもっと描いてもらいたかったように思う。
『魔法の猫』 ジャック・ダン&ガードナー・ドゾワ編
猫SFとファンタジーのアンソロジー。「跳躍者の時空」「鼠と竜のゲーム」はいいんだけど、後はわりと小物。中ではエドワード・ブライアントの「ジェイド・ブルー」がやはりいい。シナバーはちゃんと訳して欲しいなあ。今読んでも決して古くはないと思う。70年代カリフォルニアっていうのも古びはしないと思うし。他は、ホラーっぽいのやコミックっぽいのが面白かった。ま、でもスミスとライバーがあれば、後は何でもいいやって感じかな。
『塗仏の宴』 京極夏彦
あいかわらず分厚いけど、これは前編なんですなあ。後編は7月か。やれやれ。消えた村の謎をメインに、怪しげな宗教団体がからみ、どうやら催眠術か洗脳のような技術をベースにした現実と幻想の間に関する議論がなされ、そしてこれまでの作品に出てきた人々がそれぞれの物語を語る。一つ一つの物語はそれほどねじくれずに、すっきりとまとまっているので、いつもの枝葉末節に流れる蘊蓄話にもさほどこんがらかることなく、筋を追うことが出来る。だからすごく読みやすく感じた。そのぶん、普通のミステリのように見える。ま、まだどうなるかわからないけど。脱線(じゃないんだろうけど)していく書き込みをカットしてみても、ちゃんと筋が見えるというのがこれまでと違う感じだ。そういう骨ばかりにしてみると、これはこの厚さの三分の一でも十分にミステリとしての面白さがあると思える。では、その過剰な部分というのはいったい何なのか。それがまあ京極の魅力なんだろうけれど。ここまで過剰じゃなくても、普通の伝奇小説的味付けで十分楽しめると思えるだけに、うーん何なんでしょう。これまでのと違って、今回の謎がわりと伝奇小説的に面白そうなだけに、よけいそう思
える。そこへ、関口の逮捕だ。最後であの人を殺しちゃうし(これってちょっと唖然。そんな、ひどいよっていいたくなる)。キャラクター的な興味も、京極の場合、わりと単純なんだよね。深い内面描写でキャラクターに入り込むというよりは、すごく記号化されている。それはそれでわかりやすくていいのだけれど。だからこそ、こういう風に扱われると、そりゃないでしょといいたくなったり。40年以上前の話のはずが、時代錯誤な言葉が時折出てくるのも、これをリアルに受け取ってはいけないというサインなのか。とりあえず、化け物の姿がまだはっきりしない。今回は失われた妖怪ばかりだから、それでいいのかなあ。とにかく後編が出るまで、どうしようもないなあ。
『あ・じゃ・ぱ!ν』 矢作俊彦
『あ・じゃ・ぱん』と読んでね。えーと、ヴォネガットの文体でチャンドラーのパロディをちりばめながら、小林信彦のユーモア小説風に書いた(ように読めた)小説、といったら通じるだろうか。でも、もろにそういう印象を受けたのだ。水鏡子が絶賛していたし、ヴォネガットも小林信彦も好きなので、きっと面白いには違いないと思って読んだのだが、それは確かに面白かったのだけれど、それだけに物足りなさを強く感じてしまった。確かに日本人論(天皇、米、富士山、政治)という面はすごくしっかり書き込まれていると思う。でもぼくが興味あったのは、分割国家というSF的というかもう一つの世界というか、そっちのテーマだった。ところが、まず西日本の描き方があっさりしすぎ。結局こっちには主題がなかったのかと思える。もっとしつこくコテコテに掘り下げて欲しかったのだが、これってそれこそ「醤油味のたこ焼き」みたいやん。そりゃちょっとちゃうで。チャウチャウちゃうんちゃう? このテーマに関しては、ぼくは筒井康隆風の味わいを期待していたようだ。その一方で、東日本に関しては、力の入れ方が違うような気がする(それはぼくが東をよく知らない、というだけ
のことかも知れないが。江ノ島の話とか、富士山の話とか、もう一つぴんとこないもの)。三島由紀夫や田中角栄の描き方はこれでいいのかも知れないけれど、どうもよくわからない(これもぼくの知識が足りないせいだ)。和田勉はいい味出していました。チャンドラーのパロディを思わせるストーリーについていうと、最後はバカSF的に発展もするのだが、これまたうーんという感じ。どうせなら日本沈没させちゃえばいいのに。結局、淡々として面白く読めたのだけど、期待したのとは違っていたということか。
『SFバカ本 たいやき編』 大原まり子・岬兄悟編
オリジナルアンソロジーはとても大切だと思う。だからこのシリーズもOK。昔のSFの、「変な話はみんなSFだ」路線を継承していて、やっぱりこうでなくっちゃと思います。ただ、それぞれ面白かったけど、これはすごいというほどのものはなかったなあ。まあ、そんなものが毎回あったらそれこそ大変だけど。大原まり子「オは愚か者のオ」。オタク絶滅計画の話だけど、これはちょっとおかしいぞ。オタク殲滅マシンを作るくらいのオタクなら、オのつくもの全てを殲滅するなんておおざっぱなことはしないと思うぞ。もっともっといやになるくらい細分化して、細かい差異を見つけだして、例えば海外SFオタクでも、50年代派とNW生き残りとLDGとCPとポストCPとハード派と火星派と犬派と猫派を区別して、それぞれにふさわしい殲滅方法を考える、というのが正しい殲滅オタクだと思うぞ。まあ、フリチンで会社に通うサラリーマンの大群というのが笑えるから、いいか。岡崎弘明「ぎゅうぎゅう」は、SF作家って洋の東西を問わずこういう話が好きだなあと思いつつ(垂直の崖に暮らす人々って話もありましたね)、雰囲気が好きなので好印象をもった話でした。