みだれめも 第102回

水鏡子


 なんで、4回5回6回の授賞作が同じ月にまとめて出版されるのだろう?、と首をかしげて、メフィスト賞授賞作3作まとめて買ってしまったのだから、奇をてらった出版手法に載せられたということだろう。
 もっともそれだけなら、なにも畑違いのジャンル本にうれしそうに手を出すまでのことはない。広告につられて、本屋の棚先でちらちらめくってみた中味が、どれをとっても、世が世であればSFというラベル以外で流通しそうにない内容に思えたからだ。
 読んでみると、やっぱりそうで、いずれおとらぬB級SF揃い踏み。どの作品もSF的側面抜きで小説としてのていをなせない組成でありながら、そのSF的側面を支える論理が粗雑にすぎたり、くどすぎたり、仕掛けの整理が収拾しきれなかったりする。(以下、ネタばらしに走るので御留意のほどを。 とくに『記憶の果て』は、本の印象や読み方そのものが変化してしまう可能性があるので、読むつもりなら、読まないように)

 乾くるみ『Jの神話』は、ごくありふれた、型通りのげてもの小説。もっとぶっとんだものを期待したので、失望が大きい。Jの思考や思想や文化がどうやって、生まれ、引き継がれ、伝播することが可能であったかなどを始めとして、もうすこし説得力のある背骨を入れてもらわんことには凡作の域を脱しえない。

 積木鏡介『歪んだ創世記』は、なるほどフレドリック・ブラウンを偏愛するという作者紹介に納得がいく野心作。ただし、作者、編集者はともかく読者まで組み込もうとしたのは強引すぎた。あるいはメタフィクションへの志向が強すぎた。作者の出現が早すぎる。存在論ファンタジイとしてもっと徹底してよかった。双子という設定を生かし、作者の投影としての扇舟に創造神の力を付与したことが、有賀にも同じ潜在能力を付与することになってしまい、由香里を挟んだ、鬼畜型小説理念と正統派大衆小説理念の衝突を生み、たまたま作者が書き記していた冒頭部分の〈結末〉が仇となって、扇舟でもあったところの神である作者本人が滅びることになるといったかたちにすれば、筋立てはほとんどこのまま、かなりすっきりまとまったのではなかろうか。

 浦賀和弘『記憶の果て』は、長すぎる、くどすぎる点を除けば、作品としていちばんまとまりがいい。たとえば浅倉幸恵の物語の処理のしかたなんかに好感を覚えた。読み終えて、ラストシーンの既視感から気づいたのだけど、この小説の基本設定、現代小説のフレームのなかでの、25話、26話を中心にしたエヴァの語り直しである。オリアリーの『時間旅行者は緑の海に漂う』なども読んでいそう。
 こう書くと、出そうとした手も引っ込める人間がぼくの周りに何人も思い浮かぶのだけれども、くどさのわりには、文章がぐじゃぐじゃ情緒過多に流れていない。物語のほとんどは科学や芸術、認識論や倫理をめぐるディスカッションで推移する。 まるで四〇年代のアスタウンデイングSFである。

 と、書いてみて気がついた。 そうなのだ。ここに並んだ三冊はどれをとっても四〇年代当時のアメリカSFを思い起こさせる出来の話ばかりなのである。『記憶の果て』がアスタウンデイング誌好みのディスカッションSFなら、『歪んだ創世記』はアンノウン誌系列の存在論ファンタジイ。『Jの神話』は俗悪ぶりがアメージングかウィアード・テールズといったところか。現代SFからみると、洗練に欠けるところがあるけれど、〈世界〉と遊ぶコンセプトが、一種素朴に一本気に、野心にみちて提供されているところ、SFの初心というのはこういうところにあったのだと改めて思い出させる契機に満ち満ちている。
 そしてこのことはメフィストという雑誌の作り出す場が、竹本健治や京極夏彦といった象徴を得て、SFのコンポジションを(再)発見しつつある若い熱気の集結点として機能しはじめているということなのかもしれない。
 このような若々しさとSF的なものに対する先祖返り的な直情性が全面展開されてる場所は、ファンタジイ・ノベル大賞の系列にも、ホラー大賞の系列にも、その他ヤング・アダルト、伝奇ヴァイオレンス、SFプロパー、どこにも見当たらない。この3冊を水先案内にこの傾向が拡大発展してくれるなら喜ばしい。

 と、こんだけのことを言っときながら、最後で水をかけるのはどうかと思うのだけれども。
 先祖返りにはやっぱり先祖返りを読むつらさがある。たまに帰ってきて、やっぱり田舎はいいなあ、というのはあるけど、都会の垢にまみれてしまうと、端緒から積み上げられた蓄積の結果としての頽廃文化に馴染んだ身として、棲むのはつらい。年齢的に八、九〇年代文化の空気の中についていくのもしんどいけれど、どうせ暮らしていくのなら六、七〇年代英米SF文化に染まった暮らしが望ましい。


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