みだれめも 第101回
水鏡子
ごぶさたしてます。電脳ザッタ第1号の船出を祝して、錆びついた竹光(?)を抜いてみました。うちのパソコン、まだインターネットとつながっていないのですがね。最近はもっぱら、エルフやアリスといった会社のつくったものやJRAという会社のPATというソフトと戦ってます。とはいえ98年は、3年ぶりのSF豊作年を迎えそうな気配があり、読書にもいそしむ所存でございます。
●『夜の姉妹団』柴田元幸訳編 朝日新聞社 一九〇〇円 英米小説アンソロジー
最初本屋の棚で見かけて、表紙にカタカナ名前がないものだから、TV放映の始まったばかりの『三姉妹探偵団』の原作本と勘違いした。見過ごしかけて、柴田元幸という名前に気づき、あ、エッセイ集なんだと思って手にとり、目次を開いて、げっとなった。
訳者が日本版エスクァイア誌に連載していた翻訳短篇シリーズの第1集である。表題はその巻頭のミルハウザーの短篇タイトルだった。(第2集の予定はいまのところないみたい)。三〇枚前後の短い洒落たタッチの作品集で、ひとむかし前ならダール、エリン、マシスンなどの異色作家が並んでいたものだろう。編者の趣味嗜好が本の基調を決めているという点で、伊藤典夫訳編の『吸血鬼は夜恋をする』に近いタイプのアンソロジー。今の時代にみあったものでこういう訳編者というわけで、スティーヴン・ミルハウザー、ジョン・クロウリー、ドナルド・バーセルミ、アンジェラ・カーターと錚々たるメンバーが並ぶ。伊藤本とくらべると、距離を置き、観賞気分で愛でるかたちになりがちなところが純文系ヴァージョンの魅力でもあり弱点でもある。
じっさい、並んだ作家に気後れするのがまちがいで、これはなかなか軽い気持ちで意外なくらい心地よく読み進められる。ここに並んだ人たちはブンガクの人ではあるけれど、それと同じくらい異色作家やニューヨーカーで馴染んできた世界の人たちなんだと再認識させられた次第。
三〇枚前後の小品、十とちょっとで一九〇〇円は、はっきりいって割高で、ふだんだったら古本屋に出るのを待つのだけれど、ここは『ボアズ・ヤキンのライオン』や『それぞれの海へ』『親子ネズミの冒険』に心酔したラッセル・ホーバンが載っているのですぐ買った。期待どおりこの本のなかでいちばんよかった。
「匕首をもった男」はボルヘスの短篇「南部」のあらすじ紹介から始まる。ボルヘスのこの短篇で描かれた現場に立ち合いたいという書き出しから物語は思いがけない方向に向かっていく。「ダールマンが一番見つかりそうな場所は物語だろうと思ったので、そこへ行ってみた。物語は、目もくらむ白さのなかで木々が小さな黒い影を投げる静かな通りにみつかった。それは古い、薄くなった紅色の家で、鉄の格子窓と、真鍮のノッカーと、アーチ形のドアがあった。ドアのかたわらに真鍮の銘板があって、その上に、細太の対照のきわ立つ曲線的な書体で、「南部」と書いてあった。」
もう、こういう展開大好きである。メタフィクションには場違いなこの具体的な情景描写。もしかしたら、ボルヘスの文体模写も入っているのかもしれない。さすがホーバンと感嘆しながら読んだ。話の収束していくさきは型通りのきらいがあるけれど、紡がれる世界の感触には奇妙で現実的な肌合いがある。二〇ページの短篇なので、本屋の店先での立ち読みをお勧めする。
全体に粒の揃った洒落た逸品ぞろいだが、ぼくの他の推奨作品はレベッカ・ブラウン「結婚の悦び」、ルイ・ド・ベルニエール「ラベル」、ウィル・セルフ「北ロンドン死者の書」といったあたり。SF畑ジョン・クロウリーは向こうで出ている短篇集の表題作ということで期待したけど、軽いバカ話だった。 購入価格換算評価は九八〇円くらい。古本屋で半額での購入をお勧め。
●『あ・じゃ・ぱ!ν』矢作俊彦 新潮社 上巻2400円、下巻2800円
年も明けないうちに、98年度ベストSF日本部門の首位がほとんど確定してしまった。97年は投票をパスしたのだけど、この本を投票するため今年はきちんと日本SFを読む。
概略は紹介しない。すでにいくつもレビューが出ているのでそちらを参考いただきたい。
びっくりマークにヒゲをつけた外字をつくり、『あ・じゃぱ!』と『あ・じゃぱん』を重ね合わせた表題を見て、最初に思ったのは、この本の書評をする各種メディアはこの題名をどう取り扱うのだろうかということだった。装丁用のデザイン処理ではないのである。奥付までちゃんと外字で打ってあるのだ。
結局、どこの書評も(出版元の新潮社さえ)『あ・じゃぱん』で逃げてて、ちぇ、軟弱共めと嘆いたのだけど、ここも前例にならい、『あ・じゃぱん』でいくことにする。
笑い話がひとつ。買ってきた本を開くと突然文章の途中から話が始まる。ページを見ると、13、14、15、16、9、10、11、12、17、18、19、20の順になっている。ここの部分を、実に10回近く読み返し、THATTAの例会席上で、これは過去の経緯を円環構造に仕立てあげ、落丁本と勘違いされかねないという意味で商業ルールさえも逸脱した、いかにも矢作俊彦らしい反骨精神躍如たる、すばらしいレトリックである、と宣言した。 じつは、ただの落丁だった。困ったもんだ。
これだけの傑作なのに、書評の数がとても少ない。話題としてもブレイクしない。『気分はもう戦争』と『スズキさんの放浪と遍歴』という、ぼくにとっての矢作俊彦二大傑作がしあわせな結婚を果たした大作であるというのに、たいていが「中曽根康弘東日本人民共和国国家主席」と「西日本吉本興業もうかりまっか政権」をでっちあげたきわものパロディ本としてとりあげ、色モノ的なお勧めに終始している。じつはこの本、三島由紀夫という人を無視して語れないはずのものであると思うのだけど、書評の中でその存在を示唆したものさえあまりない。正直、三島に強引な年齢処理を施したことが、小説世界のリアリティを減じた面が明らかにある。そのデメリットを覚悟のうえで、主役のひとりに据えざるを得なかったということに作者のこだわりの強さが感じられる。
色モノ部分のなかでは、川内康範・月光仮面がらみのネタがけっこうマニアックで好き。作中パロられている歌なんか、月光仮面の主題歌じゃなくて、エンディング・テーマの方である。なんの説明もなく出てきた祝十郎があの祝十郎だと気がつくまでずいぶんかかった。ほかにも「雨中の戦士」のようなSFファンがニヤリとする小ネタなんかもあったりする。 あと一点。政治的視点やマクロな現代史への視線といったもの。そうしたものが小説世界に生み出していくアクチュアリテイ。現代風俗や科学事象に対しての視線はあっても、そちらの方向へのマクロな視野はジャンルとして相当に衰微しているのではないか。小松左京や半村良をはじめとした昔のSFに横溢していたそうした空気が、必ずしも小説素材の必須要件とみなされなくなってきたことが、あるいは最近のコアなSFがジャンル外読者に広がらなくなった理由のひとつなのではなかろうか。本書の魅力の一端は、個人史的なこだわりが、組み替えられた現代史というマクロな視野構造の中で語り直されるところにある。そこに生じる猥雑さは小説にとって相当大事なものがある。この小説を読みながら、むかしSFを読んでた時に感じ
た気分に似たものを呼び起こされて、そんなことを考えてみた。
そういえば、小説は読むけど、SFは敬遠してしまう、という四〇代の人間がぼくの周囲に何人かいるのだけれど、そうした連中に貸すと、ほとんど例外なくはまってしまうのが〈十二国記〉。貸した人間みんながみんな、見事なくらい続きはまだかとのたまうという大当り。嘘だと思うなら、一度ためしてごらんあれ。
このシリーズにおいても、麒麟を含む王権政治に対する視線というのが骨太な魅力を生み出す大きな要素を成している。本書のケースと少し異なるけれども、歴史小説・時代小説のもつ安定した根強い支持とも重ね合わせて、なんやかや考えてみた。
金にゆとりのあるSFファンは、本屋に行って即座に買うべし。