大野万紀「シミルボン」掲載記事 「このテーマの作品を読もう!」
第14回 2020年ノーベル物理学賞を記念して――SFにはブラックホールがいっぱい!
2020年のノーベル物理学賞は、ブラックホールの理論研究に貢献したロジャー・ペンローズ博士と、銀河中心の超巨大ブラックホールの観測研究に貢献したラインハルト・ゲンツェル博士、およびアンドレア・ゲッズ博士が受賞されました。そこで今回はSFとブラックホールについて語ってみようと思います。
いまやブラックホールという言葉も科学ニュースや科学解説だけでなく、マンガや映画やアニメでごく普通に出てくる、ごくおなじみの用語となっています。それには新しい科学に飛びつき、想像を膨らませていったSF作家たちの数多くの作品があり、それを見て育った様々な分野のクリエーターたちの活動があったからに違いありません。そう、SFにはブラックホールがいっぱいなのです。
ここではざっくりとブラックホールとSFの歴史を振り返り、注目すべき作品を挙げていこうと思います。あ、あくまでぼくが思いついた作品だけですよ(もう一つ言えば、小説に限定しています)。ブラックホールを扱ったSFは山ほどあるので、こんな重要な作品なのに抜けているとか、この作品よりこっちの方がずっといいのにとか、色々とご意見はあるかと思いますが、そこはどうかご容赦を。
そもそもの発端は、ブラックホールという言葉もなかった昔にさかのぼります。ブラックホールという言葉について言えば、ぼくは1967年に物理学者のジョン・ホイーラーが言い出して、70年代になってから広がった言葉だと思っていましたが、実際は1964年に科学ジャーナリストのアン・ユーイングという人が使い始めたのだそうです。いずれにせよ、それは恒星が崩壊し、超高密度となってその重力で光も抜け出せないくらいに縮退した天体を示すものでした。なおこの縮退星(コラプサー)という用語はSFでも使われていたことがあり、響きがかっこいいので、ブラックホールの同義語として今でも使っている例があります。光も脱出できなくなる特異点とか事象の地平面(シュヴァルツシルト面)とかはアインシュタインの一般相対性理論から導かれるもので、その向こうはこの宇宙とは無縁の、物理法則も異なる(かも知れない)謎の世界があると言われていました。さらにそこに落ちると相対論効果で外部との時間の進み方が変わるため、一種のタイムマシンとしても働くだろうと。
そんなエキゾチックな存在にSF作家が飛びつかないはずはありません。シュヴァルツシルト面の話などは戦前からあるものなので、古典SFにも出てきているでしょう。ぼくの記憶にあるのはスタニスワフ・レムのデビュー長編『金星応答なし』(1951年)で、そこには重力を制御する〈白い球体〉なるものが登場します。その周りでは光が直進せず、重力場により湾曲するので様々な異常な現象が起こると図解入りで説明されています。
ホイーラーらがブラックホールという言葉を徐々に広めていった1960年代後半になると、まだその用語は一般的ではなかったものの、明らかにブラックホールの物理を扱ったSFが出てきます。その中で今読んでも面白い、特に重要な2編を紹介しましょう。
一つはポール・アンダースンの「キリエ」。『宇宙生命SF傑作選 黒い破壊者』に収録されていますが、初出は1968年の作品で、超新星の中心核をプラズマ生命体とともに探検しようとする話です。この中心核というのがその名では書かれていませんがブラックホールそのものであり、シュヴァルツシルト面に接近すると時間の流れが遅くなる現象がとても効果的に描かれており、今読んでも全く古びていません。テレパシー的に交流できるプラズマ生命体と女性技官との結びつきが、ブラックホールの物理的な性質と相まって、美しくも悲劇的な結末を迎えるこの作品には、良質なハードSFのもつ硬質なロマンがあります。その昔SFマガジンで読んだときも、これこそがSFらしい情感なのだと感動した記憶があります。
日本でも同時期に同じような作品が書かれています。
石原藤夫さんの「時間と空間の涯」(1969年のSFマガジンが初出ですが、書かれたのは68年。『銀河を呼ぶ声』に収録)という短篇で、これまた時代を超えた傑作です。石原さんはその後もブラックホールを扱った作品を多数書かれていますが、この後でふれる「ブラックホール惑星」とは違い、こちらは非常にシリアスでハードな作品です。ここでは〈悪魔の星〉と呼ばれる「宇宙の黒い穴(まさにブラックホール!)」に捕らえられた宇宙船の救助に向かう科学調査船の物語が描かれるのですが、ブラックホールに落ちたらどうなるか、という問題が、しっかりと科学的に――そしてSF的な想像力ゆたかに――描かれており、さらにブラックホールが宇宙の虫食い穴として機能するという、その後のSFでは当たり前となったアイデアの、最も初期の例となっているのです。結末のSF的なイメージの広がりにも新たな希望を感じさせて心を打つものがあります。
70年代に入るとブラックホールという言葉が広く使われるようになり、たちまちSF用語としても普及します。ブラックホールの研究も、ホイーラー、ペンローズ、そしてスティーヴン・ホーキングらによって発展し、また実際の観測でブラックホールと思われる天体が見つかったり、一方銀河の中心には超巨大ブラックホールがあるらしいとわかったり、さらに宇宙誕生ビッグバンの時にとても小さなマイクロ・ブラックホールが大量に生成され、その多くはホーキング輻射で蒸発してしまったけれど、今でも宇宙空間を漂っているはずのその残りを捕まえれば、無尽蔵のエネルギーをそこから取り出すことができるという話も、SFとしてではなく科学の話題として語られるようになりました。ブラックホールと対になるホワイトホールの存在も予想され、それが宇宙の虫食い穴、ワームホールとなって、そこを通れば超光速で宇宙を航行できるというアイデアも大っぴらに議論されました。
そのころ最も積極的にブラックホールをテーマにSFを書いたのはおそらくラリイ・ニーヴンでしょう。すでに人気作家だったニーヴンは、共著のあるジェリイ・パーネルといっしょに当時ヒューズ研究所にいたロバート・フォワード博士(後に自身もSF作家となって『竜の卵』を書く、あのロバート・L・フォワードです)から、スティーヴン・ホーキングが発表したばかりのマイクロ・ブラックホールの話を聞き、すぐに「ホール・マン」(1974年)を書き上げます。これは火星で発見された異星人の遺跡とマイクロ・ブラックホールをからめた短編で、ヒューゴー賞短篇部門を受賞しました。さらに75年には〈ノウン・スペース〉シリーズの一編として「太陽系辺境空域」を書き、これまたヒューゴー賞短篇部門を受賞していますが、ここでもマイクロ・ブラックホールが重要なアイテムとして登場します(「ホール・マン」と「太陽系辺境空域」はいずれも『無常の月 ザ・ベスト・オブ・ラリイ・ニーヴン』に収録)。さらに長編『時間外世界』(1976年)では銀河の核にある超巨大ブラックホールが描かれるのです。この小説はブラックホール以外でも、地球が木星のまわりをまわるようになった三百万年後の太陽系とか、ユーモラスで奇怪なキャット=テイルとかが出てきて、とても面白いですよ。
こうしてブラックホールといえば宇宙SFの小道具として当たり前のものになったのですが、ブラックホールの出てくるSFを羅列していってもきりがないので、ちょっと観点を変えて、ブラックホールの種類別に見 てみることにしましょう。SFに出てくるブラックホールは、大きく分けて3種類があります。最初から議論されていた、太陽の約10倍以上の質量をもつ恒星が縮退してできる「普通の」ブラックホール。銀河の核に存在し太陽の何百万倍という質量をもつ超巨大なブラックホール。そしてビッグバンによって生まれ、宇宙を漂うことになった極小のマイクロ・ブラックホールです。それぞれ特徴があり、例えばワームホールと対になってスターゲートとなるようなブラックホールは、それなりの大きさが必要なので恒星タイプのものとなり、超巨大ブラックホールは事象の地平面が巨大なのでそこに入っても引き裂かれることはないが、時間の流れが異なるので帰ってくることはできず、そこで世界が切り離されており、マイクロ・ブラックホールは目に見えないくらいのサイズなので、どこにでもあるかも知れないが探し出すのは大変、といった具合です。
この中で(きちんと調べたわけではありませんが)SFでもっとも多く使われているのはマイクロ・ブラックホールでしょう。あまり難しい理屈を言わなくてもよく、SF的には扱うのが容易で、工学的な応用も含め様々な用途に使える小道具となるからです。例えば未来のエネルギー源として使ったり、重力制御に使ったり。また発見が難しいのでいつの間にか惑星の内部にもぐり込んでどんどん物質を吸収していき、パニックになるといった話もあります。
マイクロ・ブラックホールは危険だけれどとても有用なので、宇宙でそれを探すホール・ハンターという職業も生まれました。深宇宙の孤独の中で、一攫千金の宝探しを狙うタフなヒーローたち。いかにもロマンチックですね。たくさん書かれたそんなSFの中でぼくがお勧めするのは、短篇ですが、ジョン・ヴァーリイの「ブラックホールとロリポップ」(1977年)です。冥王星の彼方、誰もいない宇宙空間での母親と少女二 人だけでのブラックホール探索。発見されたマイクロ・ブラックホールは、何と重力を操って少女に話しかけてくるのです。意思をもつブラックホールという話は他にもありますが、これは孤独と狂気とアイデンティティの物語であり、その底には切迫した暗いエロスがあって、結末はリドル・ストーリーとしても読める傑作です。この作品は『さようなら、ロビンソン・クルーソー』に収録されています。
マイクロ・ブラックホールが有用なのは、そこから莫大なエネルギーを取り出せるからです。本当のところはどうなのかわかりませんが、SFでは様々なアイデアが語られています。科学的にありそうなのはホーキング輻射を利用するもの(適当な質量を与えてやれば対応したエネルギーが出てくる)ですが、恒星サイズのブラックホールに見られる降着円盤と同様なものをマイクロ・ブラックホールに応用したものなど、色々と考えられています。その一例として、林譲治『ウロボロスの波動』(2002年)を紹介しましょう。これは太陽系で発見されたマイクロ・ブラックホール(火星ほどの質量でサイズは2、3ミリ)のまわりに人工降着円盤を建設し、太陽系全域へのエネルギー供給源としたという設定の連作長編です(続編もあります)。作者の特徴として、科学技術よりのハードSFであると同時に、それと同等かより以上にプロジェクトの組織論や人間関係、社会のあり方に力が注がれている作品です。とてつもなく派手な事件はおこらないけれど、淡々と歴史が進んで行き、社会が変化していくさまが描かれています。
次に紹介するのはマイクロ・ブラックホールが破滅をもたらすという可能性を描いたパニック系のSF。これまた数多く書かれているのですが、まずは小松左京の『さよならジュピター』(1982年)です。映画の評価は高くないようですが、小説版はさすが小松左京、とても面白いハードSFです。太陽に衝突することがわかったマイクロ・ブラックホールを、木星を太陽化し、さらに爆発させることによってその軌道を変えようとする、実に壮大なスケールの物語です。とにかくディテールが豊かで、お腹いっぱいに。そりゃあこれをそのまま当時の技術で映画にするなんて無謀だなと思わせます。
もう一つ、デイヴィッド・ブリンの『ガイア』(1990年)を。この作品のメインテーマは地球環境問題なのですが、人工的に作られたマイクロ・ブラックホールが地球内部に落ち込み、徐々に地球を内部から食い尽くそうとする様が描かれます。主人公たちはコンピューター・ネットワークと民間の知恵でその危機に立ち向かうのです。これまた小松左京と同様、細部の設定が非常に細かく念入りに描かれており、またとても前向きで、明るい希望に満ちたハッピーなSFとなっています。多少古くなったところはあるにせよ、今読んでも十分楽しめるでしょう。
マイクロ・ブラックホールはこういったシリアスな作品で取り扱われるだけでなく、SF作家のオモチャとして、コミカルな作品やぶっ飛んだアイデアのいわゆる「バカSF」のアイテムとしても重宝されます。ここではその代表として、石原藤夫の「ブラックホール惑星」(1977年)を挙げましょう。聞いたことがありませんか?〈ブラックホールのお茶漬け〉を。マイクロ・ブラックホールをお茶漬けにして食べると強烈な幻覚作用があり、やみつきになるのだそうです。この作品は〈惑星開発コンサルタント社〉のヒノとシオダのコンビが活躍するユーモアSFシリーズの一編で、どれも絶品の面白さ。とんでもないアイデアですが、決していい加減な思いつきの話ではなく、ちゃんとハードSFにもなっているのです。
マイクロ・ブラックホールではない、普通の、恒星が縮退したブラックホールを描く作品は、ブラックホールというアイデアが珍しかった昔はともかく、実はそれほど多くありません。多いのはワームホールとして、それを宇宙航行に使う大道具として扱ったものです。ここではそうではなく、純粋にブラックホールの物理を現代的に扱った作品として、グレッグ・イーガンの傑作短篇「プランク・ダイヴ」(1998年)を挙げましょう。この作品はまさにブラックホールの事象の地平面の内側へ飛び込む(ダイヴする)という、そのものずばりをテーマにしており、それを物理学と数学の言葉を駆使して詳細に描いていくのです。実に究極のハードSFだといえるでしょう。イーガンは自身のWEBサイトで、その様子をCGにして公開しています。ただそういう科学的ディテールだけがこの作品の全てではありません。これは人間の知的探求心の意味を探る作品でもあるのです。一番のポイントは、どんな素晴らしい発見があってもその情報を持ち帰ることのできないような探求(ブラックホールへの突入)を行うことの意味です。本人しか結果を知ることのできない実験。決して他者による検証のできない、探求者の自己満足にすぎないような実験を行うことは、果たして科学といえるのか。そこにどんな意味があるのか。もちろんイーガンはそれを是とします。だからこそ、それをイメージや安易な比喩で語るのではなく、実際の科学の言葉で語ることに意味があるのです。
3つ目の超巨大ブラックホール。先に挙げたラリー・ニーヴンの『時間外世界』もそうですが、このテーマはさすがに銀河の中心まで行かないと話ができないので、はるかな遠い未来の世界を舞台にした作品が多いようです。実はイーガンの長編にもこのテーマのものがあるのですが、それを示唆するだけでネタバレになってしまいそうなので、ここでは触れません。ここでは、グレゴリイ・ベンフォードの有機生命体と機械生命体との永遠に続くかと思われる戦いを描いた〈銀河の中心〉シリーズより、その最後にあたる2編、『荒れ狂う深淵』(1994年)と『輝く永遠への航海』(1995年)を紹介しましょう。3万5千年後の未来、それまでの作品でいろいろあった後、人類の子孫たちは銀河系中心の超巨大ブラックホールに飛び込み、その中の世界で暮らしています。巨大ブラックホールを包むエルゴ空間――重力に閉じこめられた時空の混交した領域――の内部という神秘的な領域が舞台であり、ハードSF的に厳密でありながら(ベンフォードの本職は天体物理学者)まるでファンタジーのような世界が描かれます。そこには〈楔(ウェッジ)〉という何者かが建造した時空の迷宮が存在し、物質ではなく折れ曲がった時空(エスティ)そのものからなる奇怪な世界が広がっていて、エスティで築かれたローカルな領域――〈路地〉と呼ばれる――には都市や村もあり、人々が生活しているのです。この2作はシリーズの大団円であるとともに、激しく動き、ダイナミックに流動する銀河中心のイメージを、SF作家の想像力を駆使してまるで見てきたかのように描いたブラックホールSFの傑作です。
最後にもう一つ、アインシュタイン生誕140周年を記念して書かれた麦原遼・宮本道人「呑み込まれた物語 あるいは語られたブラックホールの歴史」(2019年 『現代思想』2019年8月号に収録)に触れておきましょう。これはブラックホールに呑み込まれた探査機シェヘラザードが暴君ブラックホールを相手に千夜一夜物語をするという話なのですが、実はここで述べたようなブラックホールSFの歴史をその中で概説しているのです。ブラックホールが探査機シェヘラザードに言い放つ「だまれ、低質量」という言葉にはしびれました。
入手しにくい古い作品が多くなってしまい、申し訳ありません。どれも面白いので、興味があればぜひ図書館や古本屋で探してみて下さい。
(20年10月)