大野万紀「シミルボン」掲載記事 「このテーマの作品を読もう!」
第11回 長い夜には遥か遠い未来に思いを馳せよう――遠未来SF
数十年先とか百年後とか、そういう割合に近い未来の世界を描く作品は、SFと銘打ったもの以外でもよく見られるようになりました。けれど、数千年、数万年、さらにその先という遠い未来を描くものはどうでしょうか。いや、もちろんSFと銘打たれなくても、哲学書や宗教書のみならず、先端的な文学作品の中にも気の遠くなるような未来を描くものはあるでしょう。でも、ただひたすら遠い遠い未来をこの目で見てみたいという、素朴でロマンチックな想像力を満足させてくれるものであれば、それをSFと呼んでもさしつかえないのではないでしょうか。悠久の果てしない時間の先に、一人一人の人間ではなく、人類の運命や、人類を越えた精神、果ては宇宙の未来まで描こうとする人間の想像力はすばらしい。ここでは、そんな遠未来テーマの作品を紹介していきたいと思います。
日本SFで遠未来テーマといえば、まず名前があがるのは光瀬龍でしょう。高校生のころに読んで、ぼくの記憶に強く残っている彼のことばがあります。
「今、私の考えていることは、一億年ぐらい生きたいということです。一つの物語を書き上げたあとに思うことはいつもそれなのです」
(日本SFシリーズ版『百億の昼と千億の夜』あとがき)
これですね。あと何十年生きたい、長生きしたいという話じゃないですよ。これは、歴史学者の、いやそれどころか地質学者や天文学者の目で、悠久の歴史を眺め、文明や進化の栄枯盛衰を目の当たりにし、それを知りたいという心からの願望です。
そのころの作者の書いたSFには「落陽2217年」というように、年代のついた短篇が多く、宇宙年代記シリーズと呼ばれていました。そこには時間の流れの中にあらゆるものは滅んでいくという無常感、しんと冷え込むような寂寥感があり、でもそれだけじゃなく、化石の中に、廃墟の中に、そこに生きた生物たち、そこで生きた人々のことを思うという、心のこもったまなざしもありました。
後に萩尾望都によってマンガ化された代表作『百億の昼と千億の夜』は、太古の生物たちが生存競争をつづける海から始まり、プラトン、シッタータ、イエスといった人々、そして遥か時空を超え、天帝の軍と果てしない戦いを続ける少女の姿をした阿修羅王を描いていきます。それはこの宇宙の必然的な滅亡をめぐる戦いなのです。56億7千万年後に弥勒菩薩が現れて世界を救う――この話もぼくは仏教の本ではなく『百億の昼と千億の夜』で知ったのですが――ということを、救いではなく絶望だととらえ、そんな宇宙の死をプログラムする相手と、勝ち目のない孤独な戦いを続ける阿修羅王の姿は、むなしく絶望的な状況にあるからこそ、すばらしく魅力的に映ります。
光瀬龍ではもう一つ、『たそがれに還る』も傑作です。こちらは3700年代から始まる物語なので、遠未来というにはやや現代に近いかな。
遥かな太古に宇宙で激しい戦争を戦っていた二つの種族、太陽系のはずれと地球でその遺物が見つかり、太古にこの二つの種族を恐怖させたという恐るべき破滅の存在がわかります。その破滅がふたたび太陽系に迫ってきており、人類は大変な危機に見舞われることになるのです。今読むといささか古びているところもありますが、突然地球が一瞬にして白熱し、死の星となる描写には当時本当に戦慄を覚えたものです。この作品はさらにずっと未来の歴史学者が、過去の記録を編纂したという形式をとっています。
思い返してみると、このような遠未来へのあこがれは、ぼくの場合、中学生のころに読んだ手塚治虫の『火の鳥 未来編』に行き着くようです。この作品こそ、ぼくにとっては今でも日本で書かれた遠未来テーマSFの最高傑作なのです。
『火の鳥 未来編』は35世紀の世界から始まり、しだいに衰退していった人類がついに核戦争で滅亡、かろうじて生き延びた人々のうち、人に夢を見させる力をもつ不定形生物ムーピーを連れて逃げた主人公のマサトが、火の鳥から「地球を救い、進化をやり直す存在」として不死の生命を授かり、肉体を失った後も何億年もの時間をかけてその後の地球を見守るという物語です。まさに「一億年ぐらい生きたい」という、その視点そのものですね。マサトは、人類が滅びた後、長い長い時間の中で、あらたにナメクジから進化した生物が知性を得て、文明を発達させるのを見ます。そしてまた悲劇が繰り返されるところも。ページを繰るごとに、何千年、何万年が飛ぶように過ぎていきます。
『火の鳥 未来編』のSF的な魅力はそれだけではありません。ロボットのロビタのような機械と人間、ムーピーが見せるバーチャルリアリティ、さらに宇宙から素粒子までフラクタルな繰返し構造があり、その繰返し構造が進化や時間にも及ぶという壮大なビジョンと、ありとあらゆる現代SFのテーマが凝縮されているのです。
このように、ごく短いページで膨大な時間の経過を描くのはSFの得意とするところですが、その縮小版が小松左京の『果しなき流れの果に』に見られます。それは大阪近郊の数十年におよぶ風景の変貌を早送りするように描いたシーンです。もちろんそれは遠未来の話ではなく、20世紀から21世紀(2018年!)にかけての、半分くらいは実現した(高度成長期当時の)日本の未来を、日常的な人間のスケールで描いたものですが、この壮大な物語の関係者二人が年老い、爺婆となって出会うという場面、この数ページは何度読んでも涙が出そうになるほど素晴らしい、ぼくの大好きなシーンなのです。もちろんそれは、とてつもなく非日常的で、10億年におよぶ広大な時空を行き交う『果しなき流れの果に』という作品の中にあればこその話なのですが。
『果しなき流れの果に』は小松左京の代表作の一つで、何度も日本SFのオールタイムベストに選ばれている傑作です。6千万年前の地層から見つかった、いつまでも砂が落ち続ける砂時計という、奇怪でミステリアスなシーンから始まり、舞台は数百年後の未来へ、そして時空を超えて遙かな未来や太古の世界へと移り、さらには無数の並行世界をまたがるような壮大なスケールの戦いが描かれるのです。宇宙、意識、生命といった大きな問題が語られますが、一番のテーマは、歴史とは(時間とは)決して固定的で定まったものではなく、意識によって変えることができるものだ、ということでしょう。それは作者の他の作品へもつながっていくテーマです。この10億年にわたる時空での戦いは、そのためのものなのです。
ずいぶん古い作品が続いたので、ごく最近読んだ遠未来テーマの傑作を一つあげておきましょう。それはすでにシミルボンでレビューをしていますが、川上弘美の『おおきな鳥にさらわれないよう』です。
長い長い時間の中で、ゆるやかに衰退していく人類。この作品では、光瀬龍や小松左京のような壮大で宇宙的なスケールの戦いなどは描かれず、遠い未来での、小さく分断され、細々と日々の暮らしを続けていく人々の生活が細やかに描かれます。それはごく日常的な生活であり、その中での家族や隣人、愛と性といったものが、心情豊かにゆったりと描かれていくのです。でもその日常は、今のわれわれの日常とは微妙に少しだけ、そしてある点では決定的に異なったものなのです。その違和感はしだいに大きくなっていきます。何百年、何千年、何万年という時間が過ぎていくのですが、たそがれゆく人類の暮らしにはほとんど変化がありません。それでも時には恐ろしい出来事もあり、目立たないながら重要な変化もあります。そして姿を変えながらも引き継がれていくヒトの心。ヒトの意志。それはヒトという存在を超え、この地球に存在したあらゆる生命の命と心の連鎖の中に、ずっとつながっていくのです。遙かな遠い遠い未来までも。
おっと、海外SFには触れていませんね。もちろん海外SFこそ、遠未来テーマの宝庫です。そもそもH・G・ウエルズの『タイム・マシン』からして、80万年後の未来世界を描いているじゃありませんか。
A・C・クラークの『都市と星』も遥か遠未来の話だし、もっと新しいところではグレッグ・イーガンの『ディアスポラ』なんて、始まりこそ30世紀だけど、どんどんエスカレートしていって、ついにはこの宇宙を越えた何百億年もの時空を突き進んでいく――もう常人の想像を絶しています。
あげていけばきりがないので、ここでは二つだけ紹介しましょう。
ひとつは追悼の意もこめて、この前、2017年8月18日に亡くなったブライアン・オールディスの『地球の長い午後』です。これはぼくの大好きな作品であり、めくらめく壮大な時空の中での宇宙の興亡といった派手な遠未来とは違う、遠い未来のもう一つのイメージ――年老い、衰退し、ゆっくりと滅びていく黄昏の世界――を心に刻みつけられた、とても大切な作品です。
遥か遥か遠い未来、太陽の寿命が尽きかけ、地球の自転が止まり、永遠の昼と夜だけとなった世界。地球は植物の世界となり、地表は巨大な樹木に覆われています。そこに生きる人類の末裔は、文明を失い、肉食の植物と戦いながら、細々と野蛮な生活を続けています。部族を追われ、知性を持つアミガサタケに憑依された主人公の放浪の旅が描かれるのですが、実際のところストーリーそのものより、作者がこれでもかと描き出す世界の異様さ、奇怪で豊穣な美しさに圧倒されます。地球に対して静止してしまった月との間を、超巨大なクモのような植物――ツナワタリが行き来するなどという、そのビジョンの豊かさ。訳者の工夫をこらした訳文もそれを助けます。そして背後に漂う諦観と寂寥感。その後の多くの遠未来SFに強い影響を与えた作品の一つだといえます。
もう一つ紹介したいのが、ロバート・チャールズ・ウィルスンの〈時間封鎖〉三部作――『時間封鎖』『無限記憶』『連環宇宙』です。
『時間封鎖』は2006年のヒューゴー賞受賞作ですから、わりあい新しい作品ですね。この三部作が面白いのは、最初に書いた、「一億年ぐらい生きて世界の移り変わりを眺めて見たい」という、あの願望を、不老不死などではないSF的なアイデアによって実現してしまうところです。
ここでは、ある日突然地球を謎の界面〈スピン膜〉が覆い、世界から星空が消えて、その界面の内と外では時間の流れが一億倍も違う――地球上での一年の間に、宇宙では一億年が過ぎる――というとてつもないアイデアが描かれます。火星がテラフォーミングされ人が住めるようになる時間、星々の世界へ情報が光の速さで渡っていく時間、太陽が巨星化し、惑星を呑み込むようになる時間――人の一生どころか、文明の歴史すら一 瞬にすぎないような、そんな巨大な宇宙的時間――そんな時間と、われわれ一人一人の人間がもつ、生きている時間との絶望的な乖離に、作者はスピン膜による時間傾斜というアイデアで対応するのです。かくして、子供たちが成長するような日常生活の時間の中で、火星はテラフォーミングされて新たな文明が興り、フォン・ノイマン・マシンは銀河へと広がって情報を送ってくる――まさしく「果しなき流れの果」を目にすることができるのです。ストーリーも大変面白いので、機会があればぜひ手に取ってみてください。
(17年9月)