大野万紀「シミルボン」掲載記事 「このテーマの作品を読もう!」
第1回 SF――現実と仮想現実のはざまに
仮想現実(バーチャルリアリティ)という言葉もずいぶん手あかの付いた言葉となってしまって、VRといえば、今では3D映像をリアルに再現するPCやゲーム機の周辺機器の意味に使われる方が多いのかも知れない。仮想現実はコンピューターの中に存在し、その中に没入できるよう現実をシミュレーションした空間である――というのが一般的な認識だろう。
だが最近のSFでは、現実と仮想現実はもはや区別がつかない、区別する必要もないものとして描かれることが多い。その相互作用も当たり前のものとなっている。だからこそ、今そのよって立つところを押さえておきたいと思うのだ。
現実とよく似ているがどこか違う別の世界、どちらかといえば偽物の、作り物の現実、悪夢の中のようなアナザーワールド、そういう仮想現実は、その昔の、1960年代やそれ以前のパラノイアックなSFでも多く描かれてきた。代表的な作家としてはフィリップ・K・ディックがあげられる。『ユービック』の現実崩壊感は強烈だった。彼の他の作品でも、この現実が唯一のものなのか、自分は本当の自分なのか、といったテーマは繰返し描かれている。そして、そういったディックの作品が映画化されるにあたっては、より現代的に、サイバースペースとしての仮想現実に置き換えられることが多いように思われる。
サイバースペースだ。何を今さらといわれるかも知れないが、コンピューターが身近になり、若者たちがコンピューターゲームによるゲーマーとキャラクターとの一体化を経験し、あらゆるものが情報として扱いうることを知り、人間の心もソフトウェアだという議論が普通に論じられるようになった時代。ネットワークが普及し、インターネットが世界を覆うようになった時代。それまでの仮想現実は、一挙にデジタル化された。20世紀後半、〈サイバーパンク〉の到来である。
ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』では、まだ現実と仮想現実は切り離されていて、インタフェースが問題だった。こちら側(現実側)にわたしの実体がいて、視覚だけでなく、五感すべてを仮想現実にインタフェースする〈ジャック・イン〉。意識はあくまで現実の脳の中で走っており、入出力のみが仮想現実の世界にあるというイメージだった。いわばクライアントサーバー仕様である。次の一歩は、じゃあ意識もコンピューターの中で走らせたらいいというもの。自意識のコピー、ダウンロード。ここには巨大なギャップがあるが、原理的にあり得ないとはいえない。SFではむしろありきたりなアイデアだった。SF的にはロボットだって意識をもつことができるはず。ロボットの意識と人間の意識に本質的な違いがあるとは思えない。ここで、テーマは認知科学と結びつく。意識をも含めた、生きている存在のうごめく場としての仮想現実、シミュレーションという世界がここに立ち現れる。
デジタル化された意識は、ダウンロード(かアップロードかは知らないが)可能なものとなり、サイバースペース内でスタンドアロンな存在として自立し、ついには仮想現実世界の中でも生まれてくるようになった。RPGゲームでいうNPC(ノンプレイヤーキャラクター)もPC(プレイヤーキャラクター)も、SFの世界では本質的な違いはなくなった。
ということは、ある意味で昔に帰ったということである。仮想現実は現実に従属するものではなく、現実と並立する、自立した異世界となった。このことは一方で、仮想現実をこれまでの異世界と同等な新たな冒険の舞台とする多くのエンターテインメントを生み出し、もう一方では、現実と仮想現実の境界をあいまいにし、この現実も仮想のものかも知れないというディック的なイメージに、現代的で科学的な根拠を与えるものとなった。
後者の流れが、グレッグ・イーガンを始めとする現代SFの最先端のものにつながり、今ではむしろ当たり前の感覚となっている。進歩した仮想現実は現実と区別がつかない。逆に現実もまた、進歩した仮想現実なのかも知れない。
グレッグ・イーガンの『順列都市』がこのテーマをあらためて深化させ、そしていきなり結論にまで到達した先鋭的な作品だといえるだろう。やや難解ではあるが、ソフトウェア化され、コンピューター内存在となった人間たち(コピー)による、様々な思考実験が描かれる。また『ディアスポラ』の冒頭では、ソフトウェア知性が意識を獲得する瞬間が詳細に描写される。
『ゼンデギ』ではより現実的に、コンピューター内に人格のコピーを生み出す技術的なディテールが描かれている。
そういった技術的ディテールを前提に、ブレークスルーがあったものとして(いわゆるシンギュラリティ突破というやつか)、仮想現実世界が現実とイコールであり、かつパラレルなものとして描かれたSFが数多く書かれている。
しかし、昔のSFとは微妙に感触が異なってきているように感じる。かつて、この世が虚構だと気付いた主人公たちは、真実の世界がどこかにあると信じ、脱出を試みようとしたものだ。自分の意識のみは間違いない現実だということを拠り所として(そこをさらに混乱させ、読者を不安に陥れさせる作品も多く書かれたが)。ところが今では、現実と仮想現実に根本的な差はないことが前提となり、ゲームだと思っていた世界が現実だったとわかっても、自分自身がコピーだとわかっても、わりあい簡単にそれを受け入れてしまうのだ。これが単に仮想現実の概念が一般化したせいなのか、それとも大きな世界の現実よりも目の前の小さな、しかし自分に直接関わる出来事の方が重要だと考える人々が増えているせいなのか、それはわからないが。
最後に、コンピューターどころか、遙かな大昔から現実と強固な相互関係をもち、互いに影響を及ぼし合っている仮想現実の話をしておこう。
それはつまり「お金」と、そして「物語」である。
お金といっても、実際の商品や労働への対価としてのリアリティのあるお金ではなく、金貸しや銀行に預けられ、借り貸しの時間差によって金融価値を生んだり、まだ存在しない未来への投資や、先物取引のように、ギャンブル性のあるマネーゲームのような、数字としての、情報としてのお金である。そのバーチャルな情報が現実世界にどれだけの力をもっているか、誰しもが当たり前のこととして認めている。さらに現代では、高等数学を駆使した金融工学として、コンピューターたちが、人間には不可能なスピードで膨大な取引を行っているのはご存じのとおり。
これって、もうSFの世界じゃないですか。
その昔でいえばコードウェイナー・スミスの『ノーストリリア』に、超高速先物取引で地球を買ってしまった少年の話が出てくるが、つい最近出た宮内悠介の『スペース金融道』がまさにこの、金融の仮想現実性をテーマにしたハードSFだといえるだろう。とても面白い小説なので、ぜひ読んでほしい。
そして「物語」。神話、伝説の昔から、近代の小説まで、さらに演劇や映画、マンガやアニメなど、あらゆる表現形式で描かれる「物語」こそ、仮想現実そのものではないだろうか。文字で書かれたものとは限らず、話しことば、歌、絵などで描かれ、読者や視聴者へ伝えられる情報としての「物語」。そこにあるのは文章や図形や音にコード化された情報にすぎないのに、その情報を受け取ったわれわれの脳は、そのプログラムを解釈し、走らせて、登場人物のリアルな感情や生き生きとした肉体感覚までを再現するのだ。
未来のコンピューターの中で演算され再現される仮想現実と、もしかしてこれは同じものなのではないだろうか。仮想現実と現実に本質的な違いがないとする現代SFの立場からすれば、物語もまた現実と同等なものだといえないだろうか。つまりどんな現実離れした物語もまた、もうひとつの現実なのである。
このような問題意識を描く小説は決して少なくない。むしろとても多いといえるだろう。その中でも、言語が紡ぎ出す世界と現実との等価性を、きわめて科学的・論理的に、最新のコンピューター・テクノロジーまで駆使して極めようとしているのが、円城塔の諸作である。『プロローグ』と『エピローグ』は、いずれもこのテーマの傑作だといえる。とりわけ『エピローグ』はSF的要素が強いので、面白く読めるはずだ。
現実と仮想現実の関係、その仮想現実がコンピューターの中の異世界であっても、単なる数字であっても、紙に印刷された文字列であっても、それらは現実と同等のものであり、その違いはただわれわれの認識だけによる――このことが正しいのかどうかはわからない。でも、現代のSFは(現代の文学も)それを自明のものとして捉えようとしているように、ぼくには思えるのだ。
(16年9月)