大野万紀「シミルボン」掲載記事 「ブックレビュー」

「下界は茶会の最中、さて参りましょうか」――『飛ぶ孔雀』山尾悠子の豊饒な幻想宇宙

『飛ぶ孔雀』
山尾悠子


 山尾悠子の久々の新作は、〈文學界〉に掲載された「飛ぶ孔雀」と書き下ろしの「不燃性について」の2編からなる幻想的な連作長編である。

 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。

 そんな一文から始まるこの〈不燃性〉の物語では、火が燃え難くなったという現象が作品全体を覆っているのだが、そのことは毎日の煮炊きに苦労するとか、タバコに火がつきにくいとか、そういう小さな日常的背景に溶け込んでしまっている。
 もちろん本書はストーリーを追うような小説ではない。記号的な人間たち、風景、断片的で濃密なイメージが、時系列を越えて連なり、独特の作品世界を構築している。だが、その一見無秩序で、クールで硬質な幻想世界の中に、幾何学的ともいえるある種の論理がしっかりと通っているのである。タイプは違うが、それは円城塔の作品にあるSF的で論理的な幻想に近いものだといえるだろう。それがいくらでも引用したくなる素晴らしい文章や、目くるめくイメージの鮮烈さと相まって、一読しただけでは何が起こっているのかすらわからないようなこの小説に、統一感をもたらし、その雰囲気が読者を強く魅了するのだ。
 そのイメージの何と豊饒で魅惑的なこと。「飛ぶ孔雀」には絢爛豪華な宴のイメージがあり、「不燃性について」には暗い地下迷宮の悪夢的なイメージがある。

 ぼくは特に「飛ぶ孔雀」に魅了された。真夏の夜の庭園で開かれる大寄せ。優雅なおばさまたちの「下界は茶会の最中、さて参りましょうか」のひと言で、異界から降り立つ魔女たちの気配がかもし出される。ここでは庭園の中の亭をめぐって、消えないように茶釜に火を届ける娘たちの姿が描かれる。芝を踏んではいけない、口笛を吹いてはいけない、火を落としたらそれで終わり、もちろん後戻りもダメといったルールがあり、それを邪魔するのが赤い目をした飛ぶ孔雀。さらに石灯籠の石像は「空洞くん」といって寂しさから石を増殖させ、孔雀とは敵同士。その上、庭園の芝や地面が滑るように動き出す。

 この無機物が動き出し増殖するというイメージは「不燃性について」にもある。こちらには夜の街を自由気ままに副業しながら走る路面電車、地下にある巨大な公衆浴場や温水プール、市街の目印となる三角ビルの中の劇団と役者たちがおり、ロープウェイで行く山頂のラボでは、研究員たちが様々な動物の頭骨を集めている。それらの混沌とした舞台の中を、狂言回しのような主人公たちが動き回っていくのだが、彼らの多くは単なる記号であり、その中で路面電車の女運転手だけはいわばキャラが立っており、自由で生き生きとした印象を残す。というのも、こちらの物語では、地下迷宮とか頭骨ラボとか、面倒な新人歓迎会に意図せぬ結婚とか、閉鎖的で息詰まるような悪夢的イメージが繰り広げられるのに、彼女だけはそこから抜け出して、別の世界にいるようだからである。

 本書の真の主役はそんな世界そのものだ。舞台となる地方都市は、もちろん架空の街だが、町中を流れる一 級河川、その中州にある大きな日本庭園、対岸の天守閣、路面電車、干拓地の向こうの海、町を見下ろす石切場のある山など、そこには作者の生まれ暮らした岡山の街のイメージが重なっている。それは歴史のある地方 都市の風景から立ち現れる幻想の異界なのだ。

 ぼくが山尾悠子を知ったのは、彼女が大学生時代に〈SFマガジン〉のコンテストに入賞し、SF作家としてデビューした時だ。同世代の作家の登場が嬉しく、関西のSFの集まりで話を聞いたりもした。その後、いくつかの優れた幻想的な作品を発表して話題を集めたが、長い沈黙期間があり、再登場した時には、熱狂的ともいえるファンが支える、カリスマ的な幻想小説作家となっていた。本書で作者の魅力を知ったという方には、下にあげるような他の作品もぜひ読んでみてほしい。その緻密な小宇宙をたっぷりと堪能することができるだろう。

(18年6月)


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