大野万紀「シミルボン」掲載記事 「ブックレビュー」

手塚治虫の『0マン』にはSFのすべてがある!

『0マン』
手塚治虫


 自分がSFの人となったルーツをたどってみると、子どものころのマンガに行き着く。中でも決定的だったのが、小学生の時にまとめて読んだ『0マン』だ。ここには後に知ることになるSFのセンス・オブ・ワンダーのすべてがあった。

 人類の進化、未知の生物(ヒマラヤの雪男)、来たるべき未来世界、ヒト以外の文明、人造人間と替え玉(クローンという言葉はまだなかったが)、都市改造とディストピアの到来、様々な科学兵器と世界の破滅、富士 火山帯の噴火、人工的な氷河期の到来、金星への移民、善と悪(だがその悪も絶対的なものではない)、そして革命と戦争と平和――。

 『0マン』は1959年から60年にかけて週刊少年サンデーに連載されたものだが、ぼくが読んだのは何かのプレゼントにもらった鈴木出版のりっぱな箱入り本だった。子どものこづかいでは買えないような本で、それでまとめ読みしたのが良かった。というのも、子ども向けマンガにしては構成が複雑で、細切れに読んでいては理解が難しかったかも知れない。というのも、本書は『鉄腕アトム』のような連作短篇ではなく、壮大な長篇大河SFだったからである。

 物語の冒頭、人類の進化が描かれる。『2001年宇宙の旅』のように、人類が知恵をつけ、戦いの道具を生 み出すのを、さらに高等な生物が見守っているとすれば――。
 続いて戦争で互いに戦い合う二人の兵士が、虎にくわえられた赤ん坊を見つけ、戦いを中断してその子を助けるところが描かれる。無事に子どもが助かった後、二人はまた殺し合いを始めるのだ。これって、浦沢直樹『BILLY BAT』の結末で見たシーンですね。手塚治虫ファンの浦沢直樹のことだから、きっと意識しているに違いない。
 赤ん坊は人間ではなく、リスから進化した尻尾のある0マンの子どもだった。リッキーと名付けられたその少年は日本の小学校に通い、すばらしい知性と運動能力を示しながら、その差異のためにいじめられる。やがてリッキーは、雪男探検から戻った田手上博士と出会い、自分が0マンであること、そして彼の父と母が捕らえられて日本に連れ帰られたことを知る。ヒマラヤの地下に文明を築いていた0マンは、大僧官のもと、人類を征服しようとしていたのだ。日本の首相(ちなみに今の首相のおじいさんがモデル)は替え玉に置き換えられ、東京改造計画が強引に進められる。リッキーは果敢に戦うが、ついに電子冷凍機が作動し、日本は、そして世界は氷に覆われていく……。
 この氷河期の再来を思わせる場面が圧倒的だ。破滅に向かう文明、整然と脱出しようとする人々、一コマ一コマにぞくぞくするような力がある。この後も人類の金星移住計画や、人類内部、0マン内部の対立と戦い、そしてリッキーと人間の少年、0マンの少女がからんで、世界の運命が大きく動いていく。

 いかに0マンとはいえ、小さな子どもが積極的に世界の運命に関わっていけるのか。そりゃ子どもマンガだから、といってしまえばおしまいだが、それだけではなく、昔の子ども向け作品では、力をもった大人たちが子どもたちに力強くコミットし、協力して助けるという構図があった。子どもが自分ひとりで世界と対峙するのではなく、大人やまわりの子どもたちも含めて、みんなで世界の運命に立ち向かおうとする。その中心にいるのが、知恵があり、すぐれた能力があり、正義感にあふれた、小さい読者のあるべき理想像としての子どもだった。そこらは今の「セカイ系」と大きく異なるところだろう。
 この作品でくり返し描かれるテーマは親子の愛情である。たとえ敵味方に分かれても、親が悪の魔王のような存在であっても、そこには変わらず親子の愛情がある。ヒトと0マンのように種族が違っていてもそれは共通なのだ。最近読んだ北道正幸のマンガ「ぷーねこ」に、分母がネコとヒトのようにそのままでは計算できない場合、白亜紀までさかのぼって通分すればいい、というコトバがあった。それにならえば、ヒトと0マンのように種族が違っていても、ほ乳類であるというところまで戻って通分すればわかり合えるのだろう。手塚治虫にとって、その最小公倍数が親子の愛情ということだったのかも知れない。

(16年12月)


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