大野万紀「シミルボン」掲載記事 「この作者の作品を読もう!」
第3回 怖くて切ないハードSFに、論理的なファンタジー――小林泰三を読もう
小林泰三がデビューしたのは1995年。「玩具修理者」で日本ホラー小説大賞短篇賞を受賞した。この作品と、書き下ろしの「酔歩する男」を加えて単行本化された短篇集『玩具修理者』がベストセラーとなり、表題作は田中麗奈主演で映画化もされた。だから、小説家としてのルーツはホラーにあるといってもいい。
でも、「玩具修理者」はさらにクトゥルーやウルトラ・シリーズをルーツにもった、怪談というより怪奇ファンタジーであり、そもそもSFとの親和性が高いものだった。そして「酔歩する男」は、ホラー要素の強い、とても怖い話であるが、純然たるSFであり、しかもハードな量子力学SFというとんでもない傑作だったのだ。今でこそグレッグ・イーガンを持ち出してあれこれ議論することもできるが、当時は他に類のないとてもユニークな作品だった。実際、翻訳されるのは後になるが、ほとんど同じころにイーガンも量子力学をベースにして時間と意識の問題を扱ったSFを書いており(色々あるけど、例えば『宇宙消失』もそう)、何か同時性(シンクロニシティ)のようなものを感じてしまう。
『海を見る人』は、そんなハードSF作家としての小林泰三の傑作短篇集である。ぐちょぐちょドロドロの、グロテスクなホラーや、とんでもなくイヤで不気味でしつこい人間の心理を描く作家としての彼しか知らない人は、同じ作者がこんなに美しくさわやかで、そして切ないSFを書いたことに驚くだろう。7編が収録されているが、科学的に厳密なハードSFであるにもかかわらず、不思議な世界を舞台にしたファンタジーのように読める作品が多い。中でも表題作「海を見る人」は第10回SFマガジン読者賞国内部門受賞作であり、相対性理論が日常の領域に入り込んでいる世界での、切なくも美しい、そしてとても恐ろしいボーイ・ミーツ・ガールの物語である。ボーイ・ミーツ・ガールといえば「門」もいい。時間と因果律の不思議を描いたこちらの作品の方が、救いがあって好きという読者も多いだろう。本書の中でも「海を見る人」や「時計の中のレンズ」、それに「天獄と地国」のような作品は、舞台となる世界がすごく不思議で奇妙な世界なのだが、それは理論的にきちんと計算されて作り上げられた異世界なのだ。イメージだけのものじゃない。この世界の構築は、本当に数式を立てて計算されているのだ。作品中のちょっとした描写にも、ちゃんとそうなることの意味がある。ひと言にハードSFというが、ここまで徹底して理論的に世界を作り上げている作者は、まさに日本のグレッグ・イーガンといっていいだろう。もちろん本当に電卓を持ち出して計算しなくても、読者にはその雰囲気だけで十分楽しめるはずだ。
『海を見る人』に収録された短編「天獄と地国」(『天国と地獄』じゃないので要注意)は、後に書き直されて長編化されている。
その『天獄と地国』は、頭上に大地、足下に星空が広がる、天地の逆転した真空の世界だ。人々は大地からのわずかな資源とエネルギーをたよって小さな「村」を作り生活している。その村を襲って資源を奪う「空賊」たち。さらに取りこぼしを目当てに彷徨う「落ち穂拾い」。主人公カムロギはその落ち穂拾いのリーダーだったが、ある時、巨大な人工物、その内部に取り込まれる形で操る太古の超兵器を手に入れる。彼とその仲間の3人は、この超兵器「アマツミカボシ」に乗り込み、世界の果てにあるという別天地を探す旅に出る――。
というわけで、始まりは短篇のとおりだが、それがウルトラマンか巨神兵かエヴァンゲリオンか、といった超兵器同士の戦いとなり(何しろ半分生物なので、例によって描写はグロテスクである)、最後はいかにも本格SFらしい新天地の姿が明らかになる。それにしても作者はよくもまあこんな世界で暮らす人々を想像できたものだ。
小林泰三のSF短篇集としては『天体の回転について』もお勧め。8編が収録されているが、前半はわりと肩の力を抜いた、軽めの作品が中心で、とはいえ「天体の回転について」や「あの日」では、しっかりニュートン力学の勉強もできる。後半はより(描写も)「ハード」な作品が多い。基本的にどの作品もアイデアが中心 で、驚くべき宇宙戦争のアイデアを描いた「三〇〇万」はとんでもない傑作だ。ある種のバカSFではあるのだが、ここまで突き詰めると笑いも固まる。本当にすごいよ。「盗まれた昨日」は作者がこだわっている前向性健忘症がテーマのミステリ仕立ての作品でもあるが、自意識・記憶テーマのイーガン風本格SFである。また「時空争奪」はかなり変てこなアイデアSFで、バリントン・ベイリーみたいなぶっとんだ宇宙論(しかし実はそんなに変ではない)とクトゥルー風な世界変容の恐怖が味わえる。ちょっと悪夢っぽくて、これまた傑作といっていい。
これらと少し雰囲気が異なり、ホラー寄りの作品となるが、ぼくが偏愛する小林泰三の超絶ハードSFの傑作が二つある。一つは先の「酔歩する男」であり、もう一つは「予め決定されている明日」だ。
後者が収録されている短篇集が『見晴らしのいい密室』である。これは以前に『目を擦る女』として出た本を再編集したものだ。ホラーがかったコミカルなミステリーという味わいで統一されているのだが、基本、異常な話ばかりで、そういう意味ではSFである。
多くの作品が量子力学的世界観を背景にした、複数世界の重なり合い、仮想現実と現実の同一性、そして自意識と客観性のテーマを扱っている。今ではむしろ現代SFとしてありふれているとさえ思えるようなテーマである。だがそのようなテーマを扱っても、作者の扱い方は独特であり、そこにはきわめて強い独自性がある。とりわけ「予め決定されている明日」は最初に読んだ時びっくりして飛び上がったほどの大傑作だ。紙とそろばんで計算される仮想現実世界なんて、他に誰が小説にしただろうか。でもバカSFのように見えても、これは全く論理的で、正しい結論なのだ。コンピューターの中に計算される世界も、そろばんとメモ用紙で計算される世界も同じこと。情報というのはそういうものなのだから。もうひとつすごいのは、実は計算しなくても答えはあらかじめ決まっているということ。円周率の100億桁目の数が何かはそこまで計算しないとわからないのだが、でも実際はその数値は計算しなくても決まっているはずで、であれば仮想世界はあらかじめ決定されているというものだ。決定論の世界における自由意志とは、これまたイーガンのテーマでもある。
「目を擦る女」は量子力学テーマのホラーといえる作品で、グロテスクでとても怖く、そして哀しい話である。他にも「忘却の侵略」や「未公開実験」が語り口も面白く、楽しく読める。
小林泰三のミステリ的な作品には、直近の記憶が失われてしまう前向性健忘症がテーマがよく出てくる。先の「盗まれた昨日」もそうだが、短篇集『忌憶』にも、このテーマの作品が収められている。また『記憶破断者』は、そんな記憶障害者と、なんと人の記憶を操れる超能力をもった殺人鬼とが対決するという話で、きわめて論理的・パズル的なミステリとなっている。
これらの作品では、ある時点から以後、数分間しか記憶が保てず、何でもメモに残しておかなければ忘れてしまうという記憶障害の症状が描かれる。その場合、自分とは何なのか、意識の連続性や正当性はどう保証されるのか、ということがテーマとなってくる。ホラーであり、ミステリなのだが、本質的なテーマは意識というプロセスと記憶というストレージとの関係にある。その点ではりっぱなSFなのだ。そして自分というものの連続性・正当性を保証するのが〈記憶〉であるのなら、この場合、自分とは人生の断片を記録したノートの方に存在することになるのだ。
このテーマを発展させ、人類全体にまで敷衍させた本格SFの傑作が『失われた過去と未来の犯罪』だ。
ある日突然、全人類が十数分以上の記憶を保てなくなってしまう。短期記憶を長期記憶へ移す機能が働かなくなってしまったのだ。本書は、何が起こっているかもわからず、メモをたよりにかろうじて生活を続けるようになった人々が、ついには長期記憶を外部メモリに保存することによって記憶と人格を維持できるようになり、文明を新たな段階にまで進めるという壮大な物語である。
しかしこうなった原因や、どうやって長期記憶を外部メモリに移すかといったディテールはごくあっさりと扱われる。作者の視点は物語そのものよりも仮想と現実、自意識とアイデンティティ、情報としての人間といったテーマに集中している。本書の前半はパニックSFだが、後半はそのような思考実験の成果が描かれる。ここで作者は長期記憶こそが人格の本質であるとしている。人間としての基本OSと短期メモリを持つ脳はまさにPCであり、人格のアプリとデータはハードディスクにあるというようなものだ。脳と人格を分離し、人格を外付けメモリと位置づけることで、自意識に関わる様々なSF的思考実験がわかりやすくリアルに描かれる。そして元々それが紙に書かれたメモだったことを思い出してほしい。それこそ情報の本質である。つまり小説そのものもまた……。
そして、ダークなファンタジーであり、本格ミステリであり、そしてこれまで語ってきたSFと同様な問題意識を持つ傑作が、ベストセラーになった『アリス殺し』であり、続編の『クララ殺し』である。
ここでは〈不思議の国のアリス〉や〈くるみ割り人形〉といった物語の宇宙が並列して存在し、それが実在しているとする。それはこの小説の中で、〈現実の世界〉とされている世界とも同等のものであり、そこに住む人々(人じゃないのもいるけれど)は、〈夢〉という回路を通じて〈現実の世界〉と連結されている。
『アリス殺し』は、不思議の国で起こったハンプティ・ダンプティ殺人事件を描く。それが恐るべき連続殺人に発展し、アリスが犯人と疑われる。一方〈現実の世界〉では、とある大学の研究室の学生や教授たちが、不思議の国の人々とリンクし、その記憶を夢として共有している。でもそれは単なる夢ではなく、不思議の国で人が殺されたら、リンクしている人も事故死するのだ。そこで、不思議の国と現実世界の両方のアリスは、それぞれの世界で真犯人を捜そうとする――。
というわけで、本格推理小説なのだが、そもそも論理がねじくれており、登場人物たちはみんなひとくせもふたくせもある連中なので、頭が痛くなる。とにかく、あー言えばこう言う、揚げ足とり、誤解・曲解、屁理屈、いちゃもん、いいがかり……それがやがて、まるで論理学の教科書のように見えてくるから不思議だ。最後はちゃんと謎も解けて結末がつくのだけれど。
その続編『クララ殺し』では、そこに19世紀の幻想小説作家、ホフマンの小説世界が加わり、さらにややこしい世界と登場人物間の関係、世界間のルールが描かれる。ホフマン宇宙には魔法もあり、くるみ割り人形が人間と入れ替わったりもする、本書はそんな中での、フェアな本格ミステリを描く試みなのである。
前作はアリスの世界だったのでわかりやすさもあったが、今回はホフマンの小説ということで、知名度がもう一つ。でも、とても親切なことにホフマンの作品について作者の解説つきだ。
ひたすらロジックにこだわるパズル的な作品ではあるが、そんな中で、とりわけ〈現実の世界〉での主人公である井森の、アリス世界でのアーヴァタールである蜥蜴のビルが面白い。彼はホフマン世界にも存在しており、何しろ蜥蜴なので、おつむが弱いのだ。彼の言動とまわりの反応が読んでいて楽しい。ロジックをしっかりと理解しようと思うと、かなり大変だが、まあ著者の超絶ハードSFと同じで、そこらを雰囲気で読み飛ばしてもそれなりに面白く読めてしまう小説である。
言葉によって築かれた小説世界は、言葉によっていかようにでも描くことができる。だからこそ、うっとおしくても、言葉の論理を追っていくことこそが重要なのだ。小林泰三のハードSFもホラーもファンタジーも、その同じ問題意識を繰り返しているように思える。
(17年4月)