水見稜 『マインド・イーター』 解説

 大野万紀

 
 ハヤカワ文庫
 1984年10月31日発行
 (株)早川書房
 ISBN4-15-030194-8 C0193


――人類の生物としての進化、進歩が直線的なものではないとしても、いま我々がいる平原(プラトー)が頂上であるかもしれないなどとは誰も想像しないだろう。私はそんな話が書きたかった。
進歩というものには必ず停滞期、平原(プラトー)があり、その間も営為を重ねていてはじめてある日突然再び進歩が始まるのである。逆に言えば、人は平原(プラトー)があるからこそ、その後の進歩を信じているような気もする。しかし、もう二度と登り坂はやって来ないかもしれないのだ。
そして、平原の向こうからまったく別の物が登ってくるかもしれない。私はメタファーの試行錯誤をしながら、この状態を描写してみようと思う――。
(SFマガジン八二年二月号の「野生の夢」掲載時の作者のことばより)

 SFとは、科学を引用することによって対象と対象との距離を限りなくエプシロン(読者にとって意味をもつ、ある適当な大きさ)に近づけ、nページの紙の上に表現しようとする、恐ろしくロマンチックな文学的試みである――のかもしれない。
 またぞろこんなおかしな定義を思いついたのは、本書に書かれている壮大なテーマに頭がくらくらっとなったためだろうか? 有限の紙の上に書かれる世界には限りがある。しかし、膨大な因果関係のネットワークの中からいくつかの接点が取り出され、そこに隠されたパラメーターとしてのある種の科学的体系の存在がほのめかされているならば、後は「タイルの一つか二つ」さえあれば、全体の復元が可能となる。少なくとも全体像をちらりとかいま見たような気にさせるだろう。科学(疑似科学でも別にかまわないのだが)を「コード」とする様々なメッセージの断片からなる構造体……本書のようなSFには、そういういい方も可能なのではないだろうか。そこにはまたセンス・オブ・ワンダーも存在する。例えば次のような断片だ――

――核酸の結晶は、彼の存在に気づいたかもしれなかった。彼には一瞬その結晶がのどをふりしぼって苦しげな声をあげたように思えた(本書六三ページ)

 結晶化した核酸に人間としての共感を捧げる文学。そこに全生命の進化の歴史を見、父親が、自分が、その歴史を共有していることに喜びを見出す小説。何というロマンチックな、壮大な物語だろう。これぞSFといいたくなるではないか。あなたは核酸に愛を感じることができますか? ならば結構。なぜなら、それは単なる化学物質というよりも、宇宙における生命の存在意義を主張し、人間の意識にもつながる情報系の連鎖を象徴するものだからである。この情報系あるいは構造を「言語」と呼ぶのはたやすい。本書はまず、そういう意味での言語の進化をテーマとしたSFだということができる。水見稜は色々なレベルでの「言語」を(やや観念的にすぎる場合もあるが)SFとして扱うことのできる、数少ない作家のひとりなのだ。
 水見稜はそのデビュー作「オーガニック・スープ」(SFマガジン八一年三月号)において、すでに何か得体の知れない生命の本質のような物、あるいはその進化といったことにSF的な興味を示し、しかもそれを軽みのある文体で表現して見せることに成功していた。けれども、彼が真にデビューしたといえるのは、それから一年後、<マインド・イーター>シリーズの第一作である「野生の夢」をSFマガジン八二年二月号に発表した時である。そのハードなテーマ性と、いかにも現代的でスマートなメロドラマとの見事な結合が、多くの読者の目を魅きつけたのだった。それは本格SFを書くことのできる大型新人の誕生を意味していた。「野生の夢」は、タイトルそのものがレヴィ=ストロースを思わせ、構造主義的な知の体系をバックにした、いわば文科系のハードSFとでもいうべき作品となっていた。いや、これは誤解を招きやすい表現かもしれない。やはり本格SFといった方が適当だろう。そこには理科的な科学の成果も充分に取り入れられていたからだ。しかしそういったハードな諸テーマは、小説として目に見えるところではきわめて控えめに表現されており、むしろ音楽や、スポーツや、都会生活の日常といったことの方が表面に浮かび上がっていた。こういうところに、まさしく同時代的な新鮮さが感じられたのだった。かくして水見稜は<マインド・イーター>シリーズを始めとするみずみずしい短篇群で、親と子の物語を語り、言語と意識の進化を語り、生命と生命でないものとの違いを語り、そしてSFの本質について語り始めた。これらすべてが、様々なレベルでからみあったメタファーの断片となって作品の中に織り込まれているのである。もちろん、それが常に成功しているとは限らない。断片を組み合わせればきれいなモザイクが完成するはずなのだが、どうしたことか、他と整合性のない、あるいは矛盾した断片が含まれている場合が少なからずあるのだ(ちょうど人間の意識に対するM・Eのように)。確かに、このことは作品の理解を妨げる原因となり得る。けれども、こう考えればいいかもしれない。つまり、水見稜が書こうとしている物語の宇宙は、決して統一された単一の全体ではなく、様々な状態が重ね合わされた超宇宙なのだ、と。
 水見稜は八三年二月号のSFマガジンに掲載されたインタビューで、次のような発言をしている――

――このところはなにを書いてもSFになっちゃいますね。厳密な意味ではSFと違うのかもしれないけど。最近SFの拡大解釈の問題がいろいろ言われてますけど、なにか共通するエッセンスがあるからSFと取られるわけでしょう。そういうものがまるきり欠けるものは書けなくなっている。読んで見ても面白くないしね。

 SFの共通のエッセンス。それを共有しながら、ある時は宇宙での戦いを描き、ある時は親と子、男と女の日常的な、個人的な悩みを描く。M・Eは物語をSFと結び付ける接点であり、M・Eと人間意識とのインターフェースで色々な宇宙が生まれる。これはまた、記号としてのSFと読者の関係を暗示するものである。すぐれたSFにはそれ自体がSF論となり得るようなものが多い。書く物すべてが自然とSFになるほど、SFがいわば肉体化している作者だからこそ、厳密な意味がどうあろうと、読者と作品の相互作用から生まれたものは、まさしくそのようなSFに他ならないのである。
 水見稜の略歴等は長篇『夢魔のふる夜』や前記インタビューに詳しい。神林長平と並んで、今最も期待される若手本格SFのホープである。

1984年10月


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