堀晃 『マッド・サイエンス入門』 解説
大野万紀
新潮文庫
昭和61年10月25日発行
(株)新潮社
ISBN4-10-142402-0 C0140
光陰というのは放(ほ)っておくと嫌(や)になってしまうもので、あのころからもう十年近くたってしまったんだなあと、あらためて実感する今日このごろであります。あのころ、というのは、堀さんがSFマガジンに本書を連載していた昭和52,3年のことです。あのころ、われわれSFファンは、それまでの沈黙の後、まるで堰を切ったように次々と現れてくる堀さんの傑作ハードSFの数々に目を見張ったものでした。第一回日本SF大賞を受賞した「太陽風交点」を始めとする“トリニティ”シリーズ、ハードSFファン以外の読者にも堀さんのSFの魅力を印象づけた「梅田地下オデッセイ」、情報理論的なテーマをSFのフレームで深く追求した“情報サイボーグ”シリーズ、などなど……。
本当にあの数年間は(今にして思えば)日本ハードSFの黄金時代だったのではないかとさえ思われてきます。石原藤夫氏の『宇宙船オロモルフ号の冒険』が完結し、SFマガジンに氏の科学エッセイの長期連載が始まったのもこのころでした。そしてそれは、“ハイテク”が社会のキイワードになる直前の時代だったのです。いや、その傾向はすでにあったのでしょうが、まだ大々的にはならず、目先のきく人だけがその雰囲気を察知し、口にしていたものです(例えば、パソコンはまだマニアだけのものでした)。
しかし、堀さんのハードSFがそういう時代の流れに安易に乗ったものだと考えるのは大きな間違いです。むしろ、時代の支配的な空気は、石油ショック以来、公害問題以来の反科学技術的なものでした。本書の序章でも言及されているように「文科の時代」じゃあと偉い先生がおっしゃるくらいで、理科的なものに対する反発というのは今では想像もできないくらいの激しいものがあったのです。それだからこそ、SFらしいSF、科学や技術に対する真面目な姿勢を持った本格SF、ハードSFが求められていたのだといえます。
不幸なことに、その後文庫出版時のもつれから起こった訴訟騒ぎが、堀さんの貴重なエネルギーを吸収し、SFの執筆量を減らす結果となりました。これは本当に不毛な、残念な事件でした。これがなければ、今の日本のハードSF界はずいぶん違ったものになっていたはずです。その裁判も無事に解決した今、堀さんのSFが以前にも増したペースで書かれ、われわれ読者を楽しませてくれることが大いに期待されるところです。
さて、本書はその堀さんの手によるノンフィクションです。当時、小説と同じのりで楽しめる科学解説ということで大変話題になり評判になったものです。しかし、『マッド・サイエンス入門』というタイトルにもかかわらず、そしてユーモアたっぷりに書かれているにもかかわらず、ここで扱われている科学的なテーマは決して“マッド”な、いいかげんなものではありません。その扱い方もごくオーソドックスで真面目なものです。では何が“マッド”なのかといえば、その楽しみ方、面白がり方なのです。正統的な科学研究に対して、ちょっと角度を変えて見る、実用とは直接関係ないSF的な面白さを追求する、アイデアを飛躍させ、エスカレーションさせて見る――そこから生まれる新鮮な驚きこそ、オーソドックスな目から見ればマッドなものに映る、SFのセンス・オブ・ワンダーそのものなのです。堀さんは本書の序章で〈マッド・サイエンス〉の特徴をいくつか提示しています。それをぼく流に補足しつつ引用すれば次のようになります。
とまあ、こういう風に補足してみると、これはSFにおける科学的アイデアと非常によく似たものだということができます(まあ、そういえるように補足したのだから当り前ですが)。ここから“マッド”だとか“バカバカしい”だとかいったことばをより積極的な意味に解釈しなおせば、〈マッド・サイエンス入門〉とは〈SF的アイデアの探求〉だと言い替えることができるでしょう。ブラックホールや宇宙論からにおいの科学まで、科学者たちの真面目な努力の成果を追いつつも、そこには「何か面白いアイデアはないか」と好奇心と想像力を常に働かせるSFファンの視線があります。実際、そこからアイデアをくみ取って作品に結実させた過去のSF小説の例がどの章にも含まれており、さながら科学とSFの競演という観があります。もちろん現代の複雑化したSFは、単純に科学的アイデアだけから成り立つものではありませんが、SFが与えてくれるワンダーの原点はそこにあるはずです。ハチャハチャSFのように、一見科学とは何の関係もない荒唐無稽なアイデアをもとにしているようなSFでさえ、そのあるものは(本書で言及されている横田順彌氏の作品のように)科学的アイデアを 極端化したものとして面白く読むことができるのです。実際、よほどとんでもない発想をしないことには、今や科学者の方がSF作家よりもぶっとんだことを言い出しかねない時代なのです。マッド・サイエンスの時代、マッド・サイエンティストの時代が到来しつつあるのです。
けれども、SF作家やSFファンと精神の指向性を共有するこれら現代のマッド・サイエンティストたちは、あくまでも正統的な科学者でもあるわけです。先の特徴でいえば、四番目が少し弱いことになります。彼らは大学や企業の研究所という組織の中にいることが多く、科学研究を推進することによって有形・無形の利益を社会に生み出すことが期待されています。彼らの一見バカバカしい発言は、実は決してバカバカしいものではなく、正統的科学の文脈の中にあって、はっきりと評価され得るものなのです。それがバカバカしく見えるのは、単に見る側の視野が狭いからに過ぎません。宇宙には知的生命がいてわれわれと交信しようとしているかも知れない、という科学者の発言は、日常的な観点からはバカバカしく聞こえるかも知れませんが、その研究からは通信技術に関する新たな成果が生まれる可能性もあり、何らかの実利・実用に結び付くかも知れないのです。つまり、基本的なアイデア自体はマッドかも知れないけれど、全体的に見ると充分にマッドではないというわけです。 とすれば、こういった科学的アイデアを発展させ、全くのフィクションとして描くSF作家こそ、正し くマッド・サイエンティストと呼ぶことができるでしょう。科学的アイデアに純粋なワンダーを感じ、それを発展させることに喜びを覚え、混沌としたイマジネーションにある型を与えてそれを楽しむ。こういったSFにおける科学こそ、マッド・サイエンスというべきものなのです。冷やし中華を食べながらエントロピー減少のヒントを得てタイムマシンを発明する(堀さんの「熱の檻」です)とか、マイクロ・ブラックホールをお茶漬けにして食べ、奇怪な物理現象を楽しむ(石原さんの「ブラックホール惑星」――本書でも言及されています)とか、まさにマッド・サイエンスの名に恥じないものでしょう。もう一度念を押しておきますが、このようなマッドなアイデアでも、そのベースには真面目な科学の論理があるのです。それをいかに面白がるか、というところがミソなのです。
本書が書かれたのはもう十年近く前であり、その間の科学技術の進歩によって中には確かに「色あせてしまった」項目もあります(ギャグの中にも「色あせて」しまい、今の若い読者にはわからないだろうな、と思えるものがあります)。しかし、マッド・サイエンスの観点からすれば、そんなことは全く取るに足りません。本書の面白さは十年前とちっとも変わっていないのです。本書は単なる科学解説ではありません。なにしろ各章にマッドSFの実例として、オリジナルなSF作品のダイジェスト版すらついているのです。これがいずれ劣らぬ傑作ぞろい。このサービス精神には嬉しくなってしまいます。 聞けば本書の続編が計画されているとか。新しいアイデアを含めて、ぜひ実現していただきたいものだと思います。
1986年9月