ヴォンダ・マッキンタイア/友枝康子訳
 『夢の蛇』 解説

 大野万紀

 ハヤカワ文庫SF
 昭和63年7月31日発行
 (株)早川書房
DREAMSNAKE by Vonda N. McIntyre(1978)
ISBN4-15-010780-7 C0197


 本書は一九七九年度のヒューゴー賞・ネビュラ賞の長篇部門を同時に受賞したヴォンダ・N・マッキンタイア Dreamsnake (1978)の全訳である。本書のもとになった中篇「霧と草と砂と」"Of Mist, and Grass, and Sand"(1973)も一九七四年度のネビュラ賞を受賞している。

 本書の書かれた七〇年代後半はSFが空前の大ブームに突入し、それと同時に女流作家とファンタジイのパワーが増大した時代である。ちなみに本書が長篇部門を受賞した七九年度のヒューゴー賞を見てみると、長篇部門二位がアン・マキャフリイの『白い竜』 The White Dragon 、三位がC・J・チェリイの『ケスリス』 The Faded Sun: Kesrith と、みごとに女流作家が独占しているのだ。しかも、この三作とも、ストレートなSFというよりは、ファンタジイに近い作品である。

 七〇年代後半から八〇年代はじめのアメリカSF界を支配したこの傾向――女流作家とファンタジイ――は、そのパワーがやや下火になった時、激しい批判を浴びせられることになった。もちろんここでいう女流作家批判とは、女性がSFを書くことに対する批判ではなく、SF界に進出した女性作家の多くが、現実に背を向けた自己充足的なファンタジイを量産した、という点に向けられたものである。したがって、結局問題にされたのは“七〇年代的”ファンタジイというわけだ。

 では“七〇年代的”ファンタジイとはどのようなものか?

 簡単にいえば、そのころアメリカで大量に出版された通俗的ファンタジイのことである。その特徴は、安易で底が浅く、現実逃避的で、自己中心的、未熟で、感傷的で、だらだらと長く退屈な話が続き、しかも妙に現代的なモラル臭さのあるファンタジイ……といったところだろうか。こう書いてみると、いつもSFに対していわれている世間一般の批判をそのままファンタジイに置き換えただけのように聞こえて、なんだか気恥ずかしくなるが、しかし、いやー、いつの時代でも愚作はあるものですよ……とばかりはいえないのが七〇年代後半のアメリカSF界だった。ひとつには、そういう質の低いファンタジイがSFのマーケットを侵食してきたこと(これはやや一方的な見方であり、実際には――『スターウォーズ』などを契機に――SFと称せられるマーケットが大きく広がり、そこを埋めたのがこの種のファンタジイだった、ということだろう)、もうひとつの、さらに重要な点は、先にいったような特徴が質の低い作品ばかりでなく、賞の対象となるような評価の高いSF作品にも見られるようになったことが挙げられる。これは先に挙げた特徴のいくつかが、当時の読者や作家にとって、必ずしも欠点とは認識されず、むしろ時代の雰囲気の中で認められ評価されるという状況があったためだろう。その背景には、挫折と失望の七〇年代における、ミー・イズム、コミューン指向、反科学、反テクノロジー、エコロジー指向といったものがある。この支配的な雰囲気の中で、新しい作家たちは伝統的でストレートなSFを離れ、また過激で攻撃的なニューウェーブを嫌って、自分だけの閉じられた世界へ閉じ込もる傾向があったのだ。彼らのこの種の作品――現実の世界と直接関係のない異世界を舞台とし、どこか中世的な社会でのファンタジイ風な冒険を、細やかな人間描写を中心に描く作品は“サイエンス・ファンタジイ”と呼ばれることが多い。“サイエンス”といっても科学と関係があるわけではなく、“サイエンス・フィクション”との対比で言われているにすぎない。背景にSF的なシチュエーションが使われているファンタジイといったところである。しかしこれらは決して質の低いファンタジイというものではない。むしろ、従来の伝統的なSFとはやや異なった価値観をもつ、拡大されたSFの一ジャンルとして捉えた方がいいだろう。

 さて、本書に話を戻そう。本書ははたしてそういうサイエンス・ファンタジイの一つなのだろうか?

 そうだ、という人も多い。確かに、本書はストレートなSFというよりも、サイエンス・ファンタジイの特徴を多く備えている。舞台は核戦争後の荒廃した地球、人々はどちらかといえば中世的な小集団の秩序のなかで生きている。物語の中心は一人の理想主義的な価値観をもったヒロインの、いわば職業倫理を軸にした冒険であり、個人レベルでの死と愛と戦いが感動的に描かれている。世界のあり方に対する根本的な問いかけといったSF的アプローチは見られない(後半、ややその方向性が現われるのだが、やはりこれはSFとしては中途半端で、失敗しているといわざるを得ないだろう)。それよりも、細やかな文章で生き生きと描かれるヒロインとそれを巡る人々の生き方に、彼らの感情の痛烈さに、蛇たちのうろこの光沢や、荒れ果てた砂漠の岩肌や、谷間の町の光と闇のコントラストに、読者は強く魅了されることだろう。

 にもかかわらず、ぼくは本書が今のわれわれの現実とは無縁の、自己完結したおとぎ話だとは思わない。テーマとしては背後に隠れているが、本書は七〇年代の同時代性をもって“科学”のあり方という問題にアプローチした“サイエンス・フィクション”だと考えている。ヒロインの職業である〈治療師〉は、民衆の中へわけ入って、ささやかな医療を施す善意の人々である。これは一見素朴なヒューマニズムのように見えるが、おそらくは作者の深いペシミズムの裏返しから来ているのだろうと、ぼくは思っている。というのは、ここに作者の科学技術に対する姿勢といったものが現われているように思えるからだ。マッキンタイアのSFでは、いわゆる巨大科学やハード・テクノロジイに属するものが大きく扱われることは少ない。しかしソフトな科学、とりわけ生物学は、専門の科学者でもある彼女の得意分野である。さて、七〇年代のシリアスなSF作家として当然のことながら、彼女は科学技術の未来に深いペシミズムを抱いている。荒涼とした未来の地球の描写にもそれがうかがえる(太古のクレーターにはいまだに致死の放射能が残っているのだ)。だが、彼女はそこで科学対反科学といった単純な対立図式は持ち出さない。〈治療師〉にしても、決して〈はだしの医者〉――この言葉を覚えている人も少なくなっただろうな――といったレベルのものではなく、遺伝子工学を背後にもった専門の科学者として描かれている。たゆまぬ研究と実験、そして組織的な教育こそが、素朴なヒューマニズムを、おそらくはそれ以上の、実効あるものとしているのである。マッキンタイアは科学の有用性を理解し、知的な探求のロマンを決して忘れはしない。いわば幻滅を知った後の苦い期待といったものを感じさせる視線がそこにはあるのだ。冷めた目で見てはいるが、決して冷めきってはいないというところである。ここにぼくは共感を覚える。

 科学技術は万能薬ではない。むしろ扱い方を誤れば死に至る劇薬である。このことはたいていのSF作家にとって常識であったはずだが、ならば正しい処方に従って用いれば大丈夫、というのがかつての支配的な解釈であった。しかし七〇年代の公害やベトナムでの経験が、“正しい処方”というものの存在に疑問を投げかけ、科学技術に対する反発や無関心が、SF作家と呼ばれる人々の間にまで広がっていったのだった。ファンタジイへの傾斜もその一つの現れである(八〇年代後半の今、この傾向への逆流が大きな流れとなっている。しかしそこに見られる科学技術の現状への投げやりな肯定と、未来への無関心さは、ぼくを何となく不安にさせる)。マッキンタイアはそんな中でハード・テクノロジイの擁護こそしないが、反科学、反知性的な傾向とは一線を画し、魔法ではない現実の科学知識によって、人々の病からの治癒を手助けすることができると主張したのだった。それは医者が押しつける一方的な“正しい処方”によってではなく、患者自身の直ろうとする力をそれぞれに応じて手助けすることによってである。その点で、とりわけ〈夢の蛇〉の力は重要だ。それは直接の薬効をもつわけではなく、人に生きる夢と希望を与えるだけの存在なのである。本書の結末は安易すぎるだろうか? いささか願望充足的にすぎるだろうか? そうかも知れない。けれども〈夢の蛇〉の象徴的な力を考えるとき、出口のない閉塞した時代に解放を夢みることが、それほどセンチメンタルといえるだろうか? マッキンタイアはあるところで次のような発言をしている。――「わたしがごく幼かった時、SFはある意味でわたしを解放してくれました。懐かしく思い返してみれば、わたしは自分自身のしばりつけられている社会というものにすっかり失望してしまっていました。だからこそSFがわたしの心に大きな衝撃を与え、重要なものとなり、以後のわたしに大きな影響をおよぼすようになったのでしょう」

 SFはそれ自体が〈夢の蛇〉となることができる――そう考えてもいいのではないだろうか?

 ヴォンダ・N・マッキンタイアは一九四八年、ケンタッキー州ルイヴィルの生まれ。シアトルのワシントン大学で大学院まで進み、遺伝学を学ぶ。一九七〇年、新しいSF作家を育てるデーモン・ナイトのクラリオン・ワークショップに参加。たちまち頭角を現わしてSF界にデビュー。七四年の中篇「霧と草と砂と」でネビュラ賞受賞。七五年処女長篇『脱出を待つ者』The Exile Waiting を発表。七八年には本書『夢の蛇』でヒューゴー、ネビュラ両賞受賞に輝いた。その後もフェミニズムをテーマにしたアンソロジイを編集したりしていたが、しばらくの沈黙の後、スタートレック小説 The Entropy Effect (1981)を出版。以後、スタートレックを中心に映画のノヴェライゼーションを数多く執筆している。なお、彼女のスタートレック小説は、ノヴェライゼーションという制約はあるものの、決してファンに迎合した質の低い小説ではない。いかにもマッキンタイアらしい特長をもった、まっとうなSFになっている。最近スタトレでない長篇の本格宇宙SFも出版された。八〇年代、九〇年代の中堅作家として、今後の新たな活躍に期待がもてるところである。

 (付記――本稿はサンリオSF文庫刊ヴォンダ・マッキンタイア『脱出を待つ者』の解説をもとに、大幅な改稿を加えたものです)

1988年6月


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