高山羽根子
『うどん、キツネつきの』 解説
大野万紀
創元SF文庫
2016年11月18日発行
(株)東京創元社
ISBN978-4-488-76501-9 C0193
本書は高山羽根子のデビュー作をはじめ、書き下ろしを含む五編を収めた短篇集であり、二〇一四年に出た著者の初めての単行本を文庫化したものである。日常を描いているはずが、いつの間にかどこか違うところへ連れて行かれたり、ユーモラスで、どこか不思議で、突拍子もなく、そしてとても奥深い、「何だこれ」というような物語たちが収められている。
高山羽根子の小説を初めて目にしたのは、二〇一〇年の年末、創元SF短編賞アンソロジー『原色の想像力』に掲載され、第一回創元SF短編賞で佳作となった本書の表題作「うどん、キツネつきの」だった。
『原色の想像力』の巻末には、山田正紀(やまだまさき)、大森望(おおもりのぞみ)、日下三蔵(くさかさんぞう)、それに編集部の小浜徹也(こはまてつや)による、そのときの選考座談会が収録されている。最終選考に残った上位の候補作の中で「うどん、キツネつきの」を一番推(お)していたのは大森望だった。まずはそのタイトルのインパクトについて語り、その文章力、語り口がずば抜けていると評価する。他の選者も、その良さを認めるものの、SFとしてどうか、SFの賞として、SFらしさがあるかという点が議論になった。大森望が鈴木いずみを例に出し、表面的にはSF的な描写はないが、様々なエピソードを通じて背後にある不思議が見えてくるとき、そこにきわめて現代的なSFが立ち現れるという意味の発言をし、山田正紀もSFかどうかといえばSFだと思う、と語っている。一方で、そうはいってもSF味は薄く、SF短編賞とするには難しいという意見もあった。もちろんそれは「SF」を冠とする賞に果たしてふさわしいのかという議論であり、作品として面白く、優れていることは誰もが認めるところだった。
結果として、「うどん、キツネつきの」は佳作となり、受賞した松崎有理(まつざきゆうり)、山田正紀賞となった宮内悠介(みやうちゆうすけ)らとともに、『原色の想像力』に掲載された。
今読み返してみると、著者のそれぞれの作品にとって、ジャンルとしての「SFかどうか」という区分にあまり大きな意味はない。だがそれでも、大森望のいうとおり、作品の背後には紛れもなくSF的な「原色の想像力」があり、SFや現代科学の世界観と人々の伝統的、日常的な世界観の相互作用が描かれているといえる。それは、「発達した科学は、魔法と見分けが付かない」というクラークの法則のとおり、どこか不思議で幻想的な様相を呈する。しかしそれがどれほど奇妙に見えようとも、それはこちら側の現実や今の世界の日常と、ある経路を通じてしっかりつながった地続きなものなのである。
表題作や「母のいる島」のような作品を読んだとき、その印象から、著者の作風は「少し不思議」系の、ユニークで「奇妙な味」の作風だと思っていた。コミカルで日常的な雰囲気を描きつつ、ふと異界の深淵をのぞき見るというような。だが、それだけではなかった。本書にはずっとシリアスで重い作品も含まれている。また、本書には含まれていないが、最近作で、二〇一六年に第2回林芙美子(はやしふみこ)文学賞の大賞を受賞した「太陽の側の島」では、戦地と内地に別れた男女の書簡の形式で、二つの世界の相互作用を淡々と描いているが、それがあるところからとてつもない結末へと至る。ここでも幻想的・SF的な想像力が、著者のずば抜けた文章力で――空襲におびえながら幼い子どもと暮らす内地の妻の平凡な日常、戦争に取り残されたような南の島での兵士の暮らし、その感情豊かでリアルな描写が、そのままに奇怪で幻想的な世界へと――具象化されているのである。
以下、本書に収録された作品について、ぼくの感想を述べてみたい。作品の内容にふれるので、ネタバレが気になる方は、まず本書を読んでから、その後でご覧いただくことをおすすめする。
まず表題作「うどん、キツネつきの」。うどんというのは、三人姉妹が飼っている犬の名前である。犬といったが、本当のところはわからない。最後まで読むと、これは宇宙生物だったのかも知れないと思う。でも作品の中ではずっと犬として描かれていて、それでちっともかまわないのだ。この作品では、それを拾った三姉妹の日常と成長がスケッチ風に描かれている。三姉妹は個性的であり、起こる出来事もコミカルなので、ごく普通のちょっと面白い日常を切り取ったスケッチのように読める。そこに少し不思議な、いや最後はすごく不思議な出来事が起こるのだが、それで世界が変わるわけではない。むしろ、それまで送ってきた日常の意味をあらためて確認することになる。たとえば生き物を育てるとはどういうことか、といったような。
次の「シキ零(ゼロ)レイ零 ミドリ荘」。シキ零レイ零というのは敷金ゼロ、礼金ゼロという意味。そんなおんぼろアパートミドリ荘で暮らす、貧乏でちょっと変わった住人たちの様子を、主に小学四年生の女の子ミドリの目から描いた作品だ。この住人たちが、ベトナムや中国から来ている人も含め、みんな面白い。特に中心的なテーマとなっているのが言葉の問題。外国人もそうだが、日本人でもネット用語でしか話さない人、木食い虫の食い跡に古代文字を読み取る人、怪しげな大阪弁で宇宙の冒険を語り、手話を使うおっちゃん、そして夜の闇の不安感と、宇宙的な“すごく不思議”、それから犬たちのふるまいが描かれる。いつも元気で大人たちを観察しているミドリがとてもいい。ぼくは「じゃりン子チエ」のチエちゃんを思い起こした。
そして「母のいる島」。ぼくはこの作品がとても好きだ。造りとしてはわりと単純で、離島に暮らす母が入院することになり、島へ帰ることになった主人公をはじめとする十五人姉妹の物語。一見ごく普通に見える姉妹だが、実はみな超絶な技の持ち主で、たまたま島で起こった異常事態に立ち向かう。いやあ楽しい。まさに「何だこれ」って話だ。
ここまで、わりと雰囲気は明るくてコミカルなのだけれど、次の中編、単行本版に書き下ろされた「おやすみラジオ」で雰囲気が変わる。シリアスといえばいいのか、より重いというのか、背後にあったテーマ性がより表に出てきたというのか。
「おやすみラジオ」では、はじめ小学生の子どもが作ったらしきブログで、次第に成長するラジオという謎の機械が描かれる。それはそれで不思議なものだけれど、とりあえずはこれまでの作品のような日常の枠組みに一つの異物が紛れ込んだものとして読める。ところが、それがブログを読んでいる女性の生活に侵食をはじめ、ネットでのうわさや謎となって日常を変容させていく。それはバベルであり、情報の洪水であり、いつか現れるだろう方舟(はこぶね)の幻影をもって話は終わる。リチャード・ドーキンスのいう〈ミーム〉――すなわち人から人へ文化や習慣や知識を伝える情報の遺伝子――についての物語であり、まさに現代SFのど真ん中といえるテーマを扱った傑作である。
最後の「巨(おお)きなものの還(かえ)る場所」も、シリアスで本格的な幻想譚である。明らかに東日本大震災を背景にして、青森のねぶたと出雲の国引きを結びつけ、神話的で巨大なものの到来を幻視する。そこにオシラサマや、学天則(がくてんそく)や、空飛ぶスパゲッティや、シャガールの絵や、時代を越えて、「家族」や「場所」に縛られながら、人ではない巨きな何かにつながろうとする人々の物語を描いていく。中で語られる言葉が印象的だ。「意識とか、魂みたいなものは、ひょっとしたら私自身にあるんじゃなくて、所属している集団とか、場所のほうにあるのかも。そこにたまたま私みたいなひとつの生き物がいるから、私に魂があるように見えるだけで」。「場」に宿る意識。これをSFといわずに何といおうか。
本書の作品には、それぞれ横文字のタイトルがついている。それも直訳ではなく、テーマを含めて考えられたものになっていて面白い。誰がつけたのだろうと思っていたが、確認したところ著者が自分でつけたとのことだった。例えば表題作は「Unknown Dog Of Nobody」で、頭文字をつなげるとUDONとなるのだ。英語だけでなく「ミドリ荘」はエスペラント後で「古い家」を意味する「Malnova Domo」、「巨きなもの」は「Le Grand Conservatoire」というフランス語である(著者によると、巨大で“人為的介入を伴わない自然現象”とのことだ)。「おやすみラジオ」の英題はそのものずばり「Radio Meme」となっている。
はじめ、ちょっと変わった面白い話を書く人だな、と思っていた著者が、こんな突拍子もない傑作を書く人だったとは。この人の想像力の強さは本物だ。
2016年9月