コードウェイナー・スミス/伊藤典夫・酒井昭伸訳
 『三惑星の探求 (人類補完機構全短篇3)』 解説

 大野万紀

 ハヤカワ文庫
 2017年8月15日発行
 (株)早川書房
 THE REDISCOVERY OF MAN 3 by Cordwainer Smith (1975)
ISBN978-4-15-012138-9 C0197


 本書はコードウェイナー・スミスの〈人類補完機構全短篇〉の第三巻であり、最終巻である。これで、スミスの未来史は、断片的なものを除いて全て翻訳されたことになる。
 第三巻である本書には、人類補完機構の未来史では最後の時代にあたる〈人間の再発見〉以後、星々を越えた宗教の輸出入が禁止された時代に、キャッシャー・オニールという名の一人の男が、自分の惑星を取り戻すまでの冒険を扱った〈キャッシャー・オニール〉シリーズの全作品と、スミスの死後に夫人だったジュヌヴィーヴ・ラインバーガーが執筆した、おそらくは未来史の再末尾に新たな時代をつけ加えようと試みた(かも知れない)「太陽なき海に沈む」、そして、人類補完機構の未来史には属さないとされる「その他の作品」(以前『第81Q戦争』に収録されたものとかぶっている)が収められている。
 なお〈キャッシャー・オニール〉シリーズのうち二編と、「太陽なき海に沈む」はこれまで(商業出版では)邦訳がなく、新たに酒井昭伸さんによって訳し下ろされたものである。

 コードウェイナー・スミス、本名ポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガー博士。中国名、林白楽(リン・バー・ロー)。一九一三年アメリカ生まれの政治学者で軍人。孫文の法律顧問だった父親に連れられて中国に渡り、第二次大戦中はアメリカ陸軍の諜報部員として活躍、その経験は『心理戦争』(みすず書房一九五三年六月)にまとめられている。戦中・戦後のアメリカの対日政策に大きく関わり、朝鮮戦争でも活躍。オーストラリア、ギリシア、エジプトと、多くの国を訪れ、ケネディ大統領の顧問もつとめた。そんな彼の経歴は、第一巻『スキャナーに生きがいはない』のJ・J・ピアスの序文に詳しく語られている。
 少年のころから小説を書き始め、その一つが本書に収録されている「第81Q戦争(オリジナル版)」である。戦前、一九三〇年代から四〇年代にかけても多くの作品を執筆しているが、そのうちの一編がやっと雑誌に掲載され、SF作家としてデビューしたのは、一九五〇年の「スキャナーに生きがいはない」だった(第一巻に収録)。一読してわかるとおり、スミスの魅力である人類補完機構の設定、文体、キャラクター、アイデアといったすべての要素が含まれた傑作である。
 それから十六年、一九六六年に五三歳という若さで亡くなるまでに、スミスが書いて発表したSFの中短篇は、この第一巻から第三巻に収められたものがすべてである。それでも、この壮大な未来史には、まだまだ謎が多く、大きなすき間がぽっかりと空いているようにすら思える。そのある部分は、スミスのいくつかの作品の共同執筆者でもあった夫人のジェヌヴィーヴが補足し、書き足している。また残された資料から、J・J・ピアスを始めとする研究者たちが調査し、見つけ出した断片もある。それでも、その全体像はわからないままだ。作品のなかで言及されているが、どこにもその出所がない謎めいた言葉は、いったいなんなのだろうか。そんな読者の想像力を刺激するのが「失われた三千年」と呼ばれるスミスの執筆ノートだ。『シェイヨルという名の星』に収録された、ロジャー・ゼラズニイのエッセイから引用しよう。

 あるときスミスは三千年をなくしてしまったことがある。西暦六〇〇〇年から九〇〇〇年までの歴史で、スミスはこれを背の赤い小型のノートブックの中にしまっていた。ギリシア領のロードス島にいたとき、彼はうっかりノートブックを波止場近くのレストランのテーブルに置き忘れてしまった。気づいてもどったときにはノートブックは消え、見つかれば賞金を出すと広告したけれど、それっきり出てこなかった。そのなかにはキャラクター・プロット・アイデアなどについて思いついたことが、何ページにもわたってびっしりと書きつけられていた。――要するに、いつか書くつもりでいた小説群の骨組みとなるものだ。ノートはまだどこかにあるのかもしれない。彼が生きていれば、復元もできたかもしれない。何ともいえないが、いまになっては遅すぎる。(伊藤典夫訳)

 ゼラズニイは、もしノートが見つかったなら、ぼくに教えてほしいと語っている。そのゼラズニイも亡くなってしまい、仮にノートが見つかったとしてもゼラズニイ作の二次創作は読めなくなってしまった。ゼラズニイが描く人類補完機構! そう思うだけですごく読みたくなる。そういえばゼラズニイの初期の傑作「十二月の鍵」に出てくる〈猫形態〉なんて、動物じゃなくて改造された人間なんだけど、何となく下級民を思わせませんか?

 伊藤典夫さんは〈SFマガジン〉に載った「宝石の惑星」の訳者解説で、「スミスは小説の中に、読者の気づかない遊びをたくさんちりばめるのが好きだった」と書いている。宝石の惑星の名、ポントッピダンは「ノーベル賞受賞者で、デンマークの農民作家ヘンリック・ポントッピダン(1857-1943)にちなんでいる」。そしてその首都アネルセンは、「彼の代表作『約束の土地』の主人公の名前」で、「小説の英題は『土』Soil というが、実は農民にとって大切な『土』こそ、惑星ポントッピダンにいちばん欠けているものなのだ」ということだ。
 もっと重要なのは、キャッシャー・オニールの故郷である惑星ミッザーであり、彼の伯父で追放された独裁者だったクールァフのことだろう。
 実は『三惑星の探求』Quest of the Three Worlds が一九七八年にデル・レイ・ブックスから再刊されたとき、J・J・ピアスがその序文で種明かしをしているのだ。そもそも”十二ナイル”という言葉からもわかるように、この惑星がエジプトを意識していることは誰の目にも明らかだ。ミッザー Mizzer はエジプトの現地名ミスル Misr から来ており、首都カヒール Kaheer はもちろんカイロだ。でもクールァフについては、エジプトの現代史をひもとかなければならない。
 一九五二年、エジプト王国に軍部によるクーデターが起こり、時の国王ファルークが追放されてエジプト共和国が成立する。初代大統領となったのがナギーブ、二代大統領が、有名なナセルである(ぼくが子どものころ「成せばなる、成さねばならぬ何事も。ナセルはアラブの大統領」ということばがはやったのを思いだした)。実はこの時代に、コードウェイナー・スミスは(というかラインバーガーは)エジプトでも活動しており、アメリカによるプロパガンダ活動を行っていたらしい。
 クールァフ Kuraf は、ファルーク Faruk を逆につづったものである。ちなみに〈SFマガジン〉掲載時、伊藤さんはこれを「ルファーク」と訳していた。これはファルークの(カタカナでの)アナグラムだが、今回は、スミスの意図を尊重し、逆つづりということを明確にして、クールァフに変更されたとのことだ。なお、「宝石の惑星」では「ギブナ大佐とウェッダー大佐が惑星を乗っ取った」とあるが、これはファルークを追放して大統領になったナギーブとナセルをあらわしている。ギブナ Gibna はナギーブ Naguib から来ているとわかるが、ウェッダー Wedder とナセル Nasser の関係はわかりにくい。こういったことを徹底的に調べたアンソニー・ルイスの Concordance to Cordwainer Smith によれば、ウェッダーは Nasserをドイツ語で読んで、それを英訳した Wetter から来ているとのことだ。うーむ。
 もうひとつ、ピアスが明かしているのだが、小説の内容と関係のない現代史の秘密が「嵐の惑星」には隠されている。一九六三年十一月二十二日にケネディ大統領が暗殺された。そしてその二日後に、犯人とされたオズワルドが刑務所内で射殺された。一九六五年に発表された「嵐の惑星」の8章には、センテンスの最初の一文字をつなぐと「KENNEDY SHOT」となる箇所があり、さらに9章の冒頭では「OSWALD SHOT TOO」となっているのだ。ことば遊びというか、この事件への強いショックが、スミスにそうさせたのだろう。こんな離れわざをしても、小説の文章にはまったく無理をしているようすは見えないのだから、見事というしかない。ちなみに本書でいえば、百二十四ページの最後の行の「ヘンリアダのことは~」から百二十五ページの十六行目まで、そして百三十三ページの「ふだんなら~」から百三十四ページの三行目までにあたる。そういわれても、読者には何の意味もないだろうが。

 本書の収録作について。

 本書の最初の四作は、〈キャッシャー・オニール〉シリーズに属する連作で、一九六三年から六五年にかけてSF雑誌に掲載された後、一九六六年に Quest of the Three Worlds として一冊にまとまった。しかし、その年の秋、このペーパーバックがエースブックスから刊行された時には、スミスはもはやこの世の人ではなかった。六六年の八月六日に、五三歳の若さで亡くなっていたのである。伊藤典夫さんは、スミスが生前、この本の現物と対面した可能性はあまり高くないと書いている。先に書いたように、七八年にデル・レイ・ブックスからピアスの序文つきで再刊された。
 晩年のスミスは病弱で入院生活を続けていたが、そんな中で執筆意欲はおとろえることを知らず、むしろ多くの傑作を生み出していた。伊藤さんも解説でこう書いている。「晩年の数年、体力の不足によって大学の講義に行けなかったり論文が書けなかったりすると、その苛立ちを鎮めるかのようにタイプライターに向かい、すごい早さでSFを書いた」
 そのようにしてこのシリーズも書かれたのだ。
 〈人間の再発見〉から二世紀後、圧制者に奪われた故郷の惑星を取り戻そうと、星々を巡ってその指導者に会い、援助を取り付けようとする放浪者キャッシャー・オニールの冒険を描くこのシリーズだが、ストーリーそのものより、むしろその主眼はエキゾチックな惑星のディテールと、個性的なキャラクターたちを描くことにあったように思える。まずは読んで、味わってみてほしい。

「宝石の惑星」On The Gem Planet(ギャラクシイ誌一九六三年十月)
 ダイヤモンドやエメラルドの山、ルビーやトルコ石の谷が広がり、人々はみな豊かで、土が貴重品である惑星ポントッピダン。そこで話題になっているのは、一匹の馬。下級民ではない、ただの動物の馬だ。世捨て人のノーストリリア人が、ペットの馬を不老不死にしたまま、死んでいったのだ。残された馬は病み、だが死ぬことはできず、心は人間への愛でいっぱいで、酸素ボンべを背負い、人を求めて危険な宝石の山や谷を越えて来たのである。
 この短篇で重要な役割を果たすのが、美しく知的で、せいいっぱい背のびしようとしている子どもの魔力を秘めた、小さな女の子、ジュヌヴィーヴ。そんなヒロインにこの名を与えたスミスの心情を思うと、なんだか微笑ましくなる。
 この作品は先述のとおり、〈SFマガジン〉一九九三年八月号に邦訳がある。

「嵐の惑星」On The Storm Planet(ギャラクシイ誌一九六五年二月)
 シリーズの中核を占める中編で、緊迫感と謎に満ちた傑作だ。
 地上には絶えず吹き荒れる猛烈な嵐。何本かの竜巻がつねに垂れ下がっているすさまじい嵐の惑星ヘンリアダ。ここの司政官がキャッシャーを援助する条件として持ち出したのは、一人の下級民の少女を殺すことだった。だがその少女、亀を祖型とするト・ルースこそ、千年近くもの間、この惑星を実質的にひとりで支配してきた、真の支配者だったのである。
 まず惑星の自然描写がすごい。町の一歩外は沼地。キャッシャーは、完全装備の地上車に乗って、彼女の領地へと向かう。コルク抜きのような螺旋体を食い込ませて地面から飛ばされないようにしても、すさまじい嵐に翻弄される地上車。空中から地上車をのみこもうと狙う〈空鯱{くうこ}〉。それは、竜巻に巻き上げられ空で暮らすようになった歯鯨類の子孫だ。風の間に問に空中を漂う野性化した人々もいる。彼らは〈風人{かざびと}〉と呼ばれる。
 ト・ルースはキャッシャーを待ち受けていた。彼女を殺すことなど不可能だった。なぜなら、彼女は〈愛〉で武装していたからである。彼女は、主人であるノーストリリア人マーリー・マディガンの世話をするためにこの惑星を支配しており、その権威は補完機構からではなく、今でも半ば非合法の、もうひとつの権威、〈古代の有力な宗教〉からくるものだった。
 しかしト・ルースの魅力的なこと! ク・メルの魅力がどちらかといえば身近で、親しみのわくものなのに対して、この少女はもっと神秘的で、謎めいている。ミッザー解放を目指すキャッシャーに、彼女は究極の兵器を与えるつもりだという。それは何かと問うと、少女は答えるのだ。「いますぐ教えてあげる。それはね、わたし
 この後の展開は本書を読んでいただくとして、ここで、われわれにはあまりなじみのない〈古代の有力な宗教〉のシンボルについて語っておこう。「二本の木片を交差させ、その上に釘で磔にされた男をあしらった宝飾品」が、十字架に架かったキリスト像だとはすぐわかるだろうが、〈魚のしるし{イクテュス}〉というのも古代のキリスト教徒が迫害から逃れるために使った、キリストを現すシンボルなのである。
 このことからもわかるように、このシリーズには宗教的な(もっといえばキリスト教的な)イメージがきわめて濃厚に現れている。第一巻のピアスの序文によれば、スミスはカトリック教徒ではあったが、熱心な監督教会の信者となったのは人生の後半になってからだ。一九六〇年に深刻な病気にかかる以前のスミスの作品には、宗教的な要素があからさまに描かれることはほとんどなかった。それが『ノーストリリア』と、関連する短篇から、キリスト教的なイメージが強く押し出されるようになったのである。このシリーズは、それが頂点に達したものだといえよう。
 とはいえ、この作品でも、補完機構宇宙の奇怪でグロテスクな、その独特の魅力が、宗教的イメージよりも遥かにまさっている。キリスト教的なイメージは、「帰らぬク・メルのバラッド」から続く、この世界の背景のひとつとして、むしろその奥行きを深めているのだといえるだろう。
 本邦初訳である。

「砂の惑星」On The Sand Planet(アメージング・ストーリーズ誌一九六五年十二月)
 そしてキャッシャー・オニールは、砂の惑星ミッザーへ帰還する。仇敵ウェッダーとの対決が描かれるが、それは今の彼の力をもってすれば、きわめてあっけないものとなる。物語の後半は、その後のキャッシャーの魂の遍歴を、”第十三ナイル河”への巡礼の旅を描く。それはとても穏やかで寓話的な、まさに宗教画を眺めるようなものだ。〈第一の禁じられた者〉〈第二の禁じられた者〉〈第三の禁じられた者〉とは、父と子と精霊の、三位一体のことに違いあるまい。スミス最晩年の作品として、美しく、安らぎに満ちた物語である。
 こちらも本邦初訳。

「三人、約束の星へ」Three To A Given Star(ギャラクシイ誌一九六五年十月)
 時代はキャッシャー・オニールの物語の後、人類に対する激しい憎悪を放射している惑星と、その脅威を取り除くために自らを武器としておもむく三人の改造人間の話である。キャッシャー・オニールが、その種族を発見し、補完機構に知らせたのだ。彼らは「ガツガツコッコッ、ガツガツコッコッ、人間、人間、人間、ヤツラヲ食エ、食エ、ヤツラヲ食エ!」とテレパシーで叫ぶような種族だった……。
 この敵に向かう、旧地球{オールド・アース}生まれの三人がいい。かつては美しい女だったが、今は宇宙船のコントロール装置となったフォリー、身長二百メートルの鋼鉄の巨人となったサム、恒星をまるごと消し去る恐ろしい武器を内蔵した一辺五十メートルの立方体となったフィンスターニス。サムとフォリーはしきりにおしゃべりしているが、フィンスターニスは無口で、どこか狂気を感じる。彼ら三人のやりとりが楽しい。
 この作品はまた、シリーズの他の三作とおもむきが違い、むしろスミスの最盛期の作品に近い。〈SFマガジン〉一九九八年一月号に掲載されたときの、伊藤さんの訳者解説から引用しよう。

 お読みになればわかるように、ほとんど補完機構の本シリーズに組み入れてもいいようなストーリーで、これだけで独立して楽しめる。シリアスにしてコミカル、結末近く、敵の正体にまつわるアイデアは、まさしくスミスのオリジナリティのあかしだろう。

 続いて、スミス亡き後、未亡人のジュヌヴィーヴ・ラインバーガーが夫名義で書いた作品である。

「太陽なき海に沈む」Down To A Sunless Sea(F&SF誌一九七五年十月)
 本邦初訳。当時、F&SF誌に、未亡人がスミスの新作を書いたと、とても話題になったことを覚えている。おそらく、スミスに何らかの元になるアイデアがあったのだろうとは思うが、この作品はスミスとの合作ではなく、ジュヌヴィーヴのオリジナルなものである。スミスが構想していたという新しいシリーズ、ピアスの年表にある〈落日の補完機構〉につながるものだったのかも知れない。ジュヌヴィーヴも一九八一年の十一月に亡くなり、詳しいことはわからない。
 太陽がなく、無数の鏡で反射される二つの月のやわらかな光に包まれた惑星ザナドゥ(何らかの超科学による光だと思われるが、気にすることはない)。ここは官能の歓び、伎芸の聖地、感覚、肉体、精神の歓びをもたらす惑星である。惑星スタイロン4での戦闘で傷つき、保養のために訪れた補完機構の若きロード、ケマルと呼ばれるロード・ビン・ペルマイスワイリーを迎えたのは、この地の総督クアト、その遠縁にあたる美しい娘マドゥ、母違いの弟ラリである。そして、人を乗せて走る巨大な猫――下級民ではなく、動物の猫――グルゼルダ。この猫が本当に可愛い。はじめおっかなびっくりだったケマルも、すぐにグルゼルダに慣れ、いつもいっしょに出かけるようになる。
 物語はこの惑星での恐ろしい陰謀を巡って展開するが、結末はあっけなく、正直いって物足りなさを感じる。作家としてのジュヌヴィーヴは、小説のストーリーテリングをあまり重視していないのではないかと思われる。そのかわり、キャラクターたちの心情――とくにマドゥの気持ちや、グルゼルダへの愛情、美しい情景、そして数々の思わせぶりな細部――ここでも〈古代の有力な宗教〉が重要な役割を果たしている――を描くことの方に興味が集中しているようだ。
 ジュヌヴィーヴの作品を補完機構の「二次創作」といっていいかどうかはわからない。何しろ、いくつかの作品では実際にスミスといっしょになって書いていたのだ。スミスが少し書いて立ち止まる。その後をジュヌヴィーヴが何ページか進める。するとスミスがその続きを書くといったこともあったそうだ。「黄金の船が――おお! おお! おお!」「星の海に魂の帆をかけた女」「ガスタブルの惑星より」(いずれも第一巻に収録)は、このようなスミスとの合作であり、同じく第一巻に収録の「アナクロンに独り」「昼下がりの女王」は、スミスの死後に彼の遺稿を完成させたものである。彼女自身の手による作品も、本作の他に何編かあるが、それらは結局日の目を見なかった。
 スミスの死後の彼女の手による作品には、確かにぎごちないところも見受けられるが、それでもそこには確かに補完機構の重みと輝きがあるように思う。彼女は間違いなく、夫の作り上げた補完機構の宇宙を血肉化しているのだ。他の作家による「二次創作」というよりは、これはやはり補完機構の本来の世界に含めてもかまわないものだと思う。
 ところで、ハーラン・エリスンも、シオドア・スタージョンといっしょにコードウェイナー・スミスのオマージュ作品を書いている。だがその作品 "Runesmith" は、何というか――まあコードウェイナー・スミスとは何の関係もない作品である。忘れましょう。

 ここからは、以前に『第81Q戦争』に収録された作品が続く。
 原書では「その他の作品」とされ、〈人類補完機構〉には属さないとされる短編群である。とはいえ、それはスミス本人がそういったわけではなく、編集者がそう判断したというだけであって、補完機構の時間線に属していても何もおかしくないような作品も含まれている。実際、「第81Q戦争」はJ・J・ピアスの未来史年表に載っているし、「ナンシー」も、後にスミス自身が未来史に含めていたという資料が見つかっている(ピアスの一九八三年の論文にある)。

「第81Q戦争(オリジナル版)」War No. 81-Q(アジュタント誌第9巻第1号(一九二八年六月)
 この作品は『人類補完機構全短篇1 スキャナーに生きがいはない』にも収録されているが、そちらは改稿版であり、こちらは以前に翻訳されたものと同じ、スミスが十代のころに初めて書いたというオリジナル版である。小説の出来としては改稿版の方が上だろうが、どうして、このオリジナル版も、淡々とした記述から細部を想像させる「書かれざる魅力」に満ちている。「ことは戦争に帰着した」という冒頭の一行がしびれるじゃありませんか。

「西洋科学はすばらしい」Western Science Is So Wonderful(イフ誌一九五八年十二月)
 以前の訳では「西欧科学はすばらしい」となっていた。
 まだソ連と中国が仲良かった時代、一九五五年の中華人民共和国に現れた火星人(?)。ソ連から来た軍人と中国共産党の党書記が彼と遭遇するという、政治的ファンタジー、というか笑い話だが、これが戦時中の中国での実際にあった話に材を取ったものだとすると、それって一体どんな出来事だったのだろう。

「ナンシー」Nancy(サテライト・サイエンス・フィクション誌一九五九年三月)
 宇宙空間でのすさまじい孤独と、それへのぞっとする対策。確かにこの作品は補完機構の未来史(おそらく始めの方だろう)に属していても、何の違和感もない。
 『第81Q戦争』の訳者あとがきで伊藤さんが書いているが、〈サテライトSF誌〉に掲載されたとき、おそらくはページ数の問題で、結末部分がばっさりカットされていた。昔の編集がいかにいいかげんだったとはいえ、驚いてしまう。その結果、前半と結末で、矛盾が生じているところがある。

「達磨大師の横笛」The Fife Of Bodhidharma(ファンタスティック誌一九五九年六月)
 遥かな古代にインドで作られ、達磨大師の手に渡った横笛。その笛には生き物の心を揺るがす力があった。笛は長い年月の後にドイツ人の手に渡り、そしてやがて……。
 この作品のアイデアはスミスが少年のころに思いつき、以後何度も改稿されてきたものだという。ほんのわずかな操作の違いで致命的なものとなる道具については、確かに別の形でもスミスの作品に繰返し現れている。

「アンガーヘルム」Angerhelm(Star Science Fiction Stories #6 一九五九年六月)
 米ソ冷戦を背景に、スプートニク衛星の録音装置に吹き込まれた謎のことば。それは平凡な一民間人、アンガーヘルム氏の名前と住所だった。そこから始まる米ソの諜報機関を巻き込む大騒動。そしてその結末は……。
 ここで描かれる政府組織の右往左往はとてもリアルで、内部の人であるスミスの、何らかの経験に基づくものなのかも知れない。

「親友たち」The Good Friends(ワールズ・オブ・トゥモロウ誌一九六三年十月)
 病院に収容された宇宙船のキャプテン。だが医者のいうことと彼の話には大きな食い違いがある。その真相は……。ショートショートだが、結末は衝撃的だ。これまた、スミスが繰返し描いた宇宙の孤独と恐怖を描く作品である。この作品も補完機構の未来史に含まれていても何の違和感もない一編だ。この医者が、ヴォマクトという名前であっても不思議はない。

 人類補完機構全短篇1~3の全三冊は、一九九三年にニュー・イングランド・SF・アソシエーション(NESFA)が、コードウェイナー・スミス作品集成の決定版として刊行した、The Rediscovery of Man の全訳である。編集方針など詳しくは、第一巻にある「編集者による序文」を参照のこと。

2017年7月


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